岡山県

西粟倉村

にしあわくらそん

「おかえり!」。子どもの頃から知る“あの子たち”のUターン。西粟倉村の子どもの探検クラブの仕掛け人が、帰村した二人と語り合いました。

今、西粟倉村では、移住者が村の人口の約15%になっています。
そんな中で少しずつ増えているのが、若いUターン者です。

現在『エーゼログループ』に勤める山下里咲子(やました・りさこ)さんと建元荘大(たてもと・そうた)さん。二人は共に、2023年にUターンしました。
二人には、もう一つ共通項があります。
それは、小学生時代に「あわくらたんけんクラブ」、通称「あわたん」に参加していたこと。
村の大自然を満喫する探検を行うクラブです。

そのクラブの仕掛け人であり運営者でもあったのが、⻄粟倉村役場の白籏佳三(しらはた・けいぞう)さん。
白籏さんは、彼らのUターンが心から嬉しかったそうです。
子どもの頃を知っている人が、大人になって村へ帰ってくる。
今、西粟倉村にはそうした“新しい喜び”のシーンが増えていっています。

今回は、そんな三人に集まってもらいました。
子どもの頃から知り合っているだけあって、三人の会話はまるで親戚のよう。
和やかな雰囲気の中で、Uターンのきっかけや当時の思い出などについて語り合ってもらいました。

 

昔の西粟倉村とは違う。仕事の選択肢が多く、村の変化も感じる

まず、Uターンしたお二人、自己紹介をお願いします。

山下:私は1994(平成6)年生まれです。西粟倉村の実家には高校を卒業する18歳まで住んで、大学進学を機に大阪へ出ました。大学4年間を大阪で過ごし、就職してからは東京や千葉に4年ほど住み、転職して大阪に戻り、3年ぐらい過ごしました。

だからトータルで11年ほど村を離れていたんですが、2023年秋にUターンし、2024年3月に『エーゼログループ』に入社しました。今仕事では、企業研修や視察で西粟倉村や弊社にいらっしゃる企業さんの窓口になり、対応しています。

山下里咲子さん

建元:僕は1999(平成11)年生まれです。村内にある影石小学校が廃校になった年です。僕は中学卒業と同時に村を離れて、高校時代は寮生活、大学時代はアパート暮らしでした。大学は岡山市内で、植物について学んだんですが、やりたいことや夢がなかなか見つからず、なんとなく「将来は自然とか環境分野の仕事かな」と思って勉強はしていたんです。大学4年になって、岡山市などで仕事を探してみたもののピンとこなくて悩んでいました。

そんなとき、以前『エーゼログループ』に勤めていて独立し、今は村内で『合同会社セリフ』の代表をされている羽田知弘さんとお話する機会があって、相談させていただいたんです。羽田さんの「地元で働きたいという人は貴重で、引く手あまただろうから、あまり心配しなくても大丈夫。地元での仕事をいろいろ調べてみるのもおもしろいと思う」というお話に背中を押され、インターンを経て『エーゼログループ』に2023年4月に新卒で入社しました。今仕事では、うなぎの養殖とかば焼き、鹿の解体を担当しています。

建元荘大さん

— Uターンを決めたのは、どんな理由や経緯だったんですか。

山下:変化していく西粟倉村を外から見ていると、自分の生まれ育った故郷だからこそ私も一緒に盛り上げていきたいなという気持ちがだんだんとこみあげてきて、少し前からUターンを考えてはいたんですけど、踏み切れない部分があって。昔は、今のように村にいろいろな仕事がなかったので「田舎には仕事があまりない」っていう印象しかなかったんですね。

そんなときに『エーゼログループ』の存在を知ったのは大きかったです。私はこれまでアパレルで接客業をしたり、営業をしたりしてきたんですが、自分のキャリアを生かせるうえ、自分自身も関心をもてる会社だなと思って、「ここで働かせてほしい」と決意しました。何か大きな一つのきっかけがあってUターンしたわけではなくて、いろいろな思いが連なって、タイミングが合ってUターンした感じです。

建元:僕は、植物や植生など自然に関わる仕事をしたいという気持ちと、「地元に何かしら貢献したい」という思いも持っていました。母親がもともと、『エーゼロゼログループ』が運営するカフェ『BASE101%』で働いていることもあって、インターンのお話をいただいたんです。

数日間インターンをさせていただき、いちご栽培、うなぎ養殖、鹿の解体などの仕事を体験したら、うなぎと鹿の仕事が特におもしろいと感じて、さらに1~2週間、その仕事を中心にやらせていただきました。その経験で「この会社で働きたい、Uターンしよう」と感じましたね。

 

山下さんは村を離れている間に、帰省して、村の変化を感じたことがあったんですね。

山下:めっちゃありましたね。新しいお店や、村の人や村外の人たちが集まるような場所ができて、若い人が増えたと感じました。村内の建物がどんどん変わって、活気が出てきた印象です。役場の建物も変わりました。昔は灰色の建物で、けっこう暗かったんです。あわくら会館と図書館は昔は別々の建物で、今みたいに太陽の光が差し込むような建物ではなく全体的にどんよりとした雰囲気でした。それでも学校が終わったらよくそこで遊んで、図書館に設置してあるパソコンを友達と取り合ったりしてたんですけど。

白籏:あったな、1台だけあるパソコンな(笑)。

山下:あとは図書館の周りで鬼ごっことかもしてたんです(笑)。でも今では、私だけじゃなくいろいろな人が、役場や図書館が入っている新しい建物「あわくら会館」でMacを開いてカチカチやってます。若い人が村の建物に集まってパソコン開いて作業しているなんて、昔だったら考えられないです。

 

体験したことは必ず「生きていくうえでの道具」になっていく

二人の共通項は小学生のときに「あわくらたんけんクラブ」にいたことで、二人とも入社の面接でその話をしたそうですね。白籏さん、運営していた立場として、それを聞いてどう感じましたか。

白籏:里咲子ちゃんも荘大くんも面接で「あわたん」の話をしたと聞いて、嬉しくて、一緒に運営していた仲間に報告しました。「私らがやっとったことが、ちょっとは貢献しとったみたいよ。『しめしめ』じゃが」言うて(笑)。

二人の他にもUターンした子がいるんですけど、村に帰るときの思いの中の一つに、「あわたん」が楽しかったという思いがあったと聞きました。きっとそれだけがUターンの理由のすべてじゃなくて、村内のみなさんが頑張って、仕事の選択肢を増やしたから。私が貢献できたのは、その一部だね。

白籏佳三さん

「あわくらたんけんクラブ」は2000年に立ち上げたそうですが、どうして始めたんですか。

白籏:いくつか経緯があるの。一つは、私は生まれ育ったのは近くの落合町(現・真庭市)なんだけど、仕事で一度東京に出てから、転勤で大阪に住んでいたんです。奥さんが西粟倉村出身で、1998年だったかな、「田舎で子育てしよう」と西粟倉村に住まいを移して、西粟倉村役場に就職しました。最初の年に雪がたくさん降って、雪降ると楽しいやん。遊びたいなって(笑)。

でも、外に出て遊びよるもん、誰もおらんのよな。それで地域の子どもたちに「おーい、何しとんじゃ?」って聞いたら、家の中でゲームやりよんの。「ゲーム楽しい!」言うて。「あぁそうか、まぁそうだわな。でもな(笑)、雪もあるけ、雪遊びせんか」って言ったら「なんで? 寒いが。ゲームのほうが楽しい」って言うて。「いやいや、寒いのはしょうがないけど、楽しいよ。ほんなら、おじさんが楽しいっていうのを証明してあげるわ。おじさんがソリのコースつくったる」言うて。

山下:おぉ、すばらしい。

白籏:ほんで、家の横の歩道にあった雪を固めて、ジャンプ台つくって。「滑れ」って言うたら、子どもたち、ソリでザーって行ってバーンと飛ぶ。そしたらもう、一発でハマったんですよ、「おもしれー!」って(笑)。

一同:(笑)

白籏:それまでは、家から降りる5~6メートルのスロープを滑っていただけで「ソリはもうやった」と思っていたみたい。

そうやって村の子どもたちの状況を知ったんですね。

白籏:そうそう。それで「子ども集めて、放課後児童クラブじゃないけど、何かしたいな。『スポ少』(スポーツ少年団の略で、小中高生が参加できる村の団体)じゃない受け皿があったらおもしろいかな」と、職場の仲間に相談したんです。思いが一致して「やろう、やろう!」いう話になって、「とにかく遊びを主体にしよう」とコンセプトを考えました。「西粟倉のすべてで遊ぼう、西粟倉のすべてから学ぼう!」と決めたんです。

西粟倉村の子どもたちは、村内に高校がないから中学校卒業までしかここにおらんから、それまでに我々ができることとして「西粟倉で楽しく過ごしたな」っていう時間を刷り込ませようと。楽しかった、怖かった、つらかったとかっていう感情の刷り込みなんですよ、とにかく。それもなしに西粟倉を出ちゃうのは、ちょっと残念だよなって。

そうして「あわくらたんけんクラブ」が始まったんですね。

白籏:はい。小・中学生対象で会員制にして、毎年4月に募集して1年間は同じメンバーで実施しました。基本的には月に1回、年間10回くらいの開催。縦割りのグループをつくって、同じメンバーでグループ行動をしてもらっていました。

ありがたいことに、子どもたちの中で「おもしろいぞ」という口コミが広がって、参加希望者が毎年増えていきよって。一番多かったときは、小学校の生徒が当時全部で90人くらいいるうち、70数人来てたな。もうびっくりした。

「あわくらたんけんクラブ」の様子(写真提供:あわくらたんけんクラブ(西粟倉村))

 

どんな風に企画を決めて、どんなことをしていたんですか?

白籏:私が「こんなん、どう?」と提案して、仲間が「おもしれーな」言うて。世代が一緒やし、経験してきた遊びも同じだから、似たような思考だったというか。とにかく、コンセプトだけは揺らがないよ。「とにかく楽しく遊ぶ」と。

具体的には、私の中でテーマがあって、「咬まれる、刺される、かぶれる」(笑)。「咬まれる」はマムシ。「刺される」は蜂や蚊。「かぶれる」の代表は漆だわね。要は、自然にはちょっと怖いものがあるんだと知る。無理に体験させるんじゃなくて、最初に「1年間を通して気をつけにゃーいけんよ」とその三つを説明してから、ウォークラリーして。道中、グループで「一番大きな葉っぱを探せ」とか、「ジャスト1キロの石を探せ」とか……

山下:あー! 懐かしい。やってたわ。

白籏:盛り上がるよ。ジャスト1キロなんか、特に。

山下:覚えとる、覚えとる(笑)。

白籏:天秤はかりを持って「ジャスト1キロ、いくで! A班からいくぞ」って言うてね。

山下:そうそう(笑)。

白籏:自然の中には危険があるよっていうのをちょっと体験してもらおうと思ってね。漆だけは見せようと思って、毎年手袋はめて生葉を採取するんですよ。「ええか? これな、(葉の)汁ついたら肌が負ける。ひどいよ」ってみんなに見せて。そしたら、歩いてて汗かいて「かゆいな」と思ったら、自分が負けとん(笑)。みんなに「こうなるんで」言うて、2週間ぐらい患って(笑)。あとは、夏のキャンプが盛り上がったね。野鳥園でやったとき、覚えとる?

山下:覚えとる、覚えとる。小学校低学年かな。キャンプファイヤーとか肝試ししたりした。

建元:やっぱりキャンプが一番楽しくて、薪割り、めっちゃ好きやった。

白籏:荘大くんは、薪割りしたらもう一生懸命になって止まらなくなるから(笑)。

建元:ずっとやってたから、薪割り名人って呼ばれて。

山下:(笑)。私も一番の思い出は、何てったってキャンプ。自分で見つけた枝にひもを通して釣竿にして魚釣りをしたり、火おこしをしたり。

白籏:あー、あったな。一生懸命やってたな。影石小学校でキャンプしたときは、冷房もないから窓を開けっぱなしで、夜、蚊が来るじゃないですか。そしたら、「おじさん、かゆうて寝れん」って何人か来るんだけど、「そんなもん、わしら知らん。蚊ぐらいおる」言うて(笑)。

ひどいと思われるかもしれないけど、私の中では「しめしめ」なんですよ。やっぱり、五感に刷り込ませんといけんの。言葉じゃなくて、「かゆかった」、「寒かった」、「暑かった」、「おいしかった」、「こんなにおいがした」って五感を刺激させるのは、重要な目的なんです、自分の中では。やることは遊びなん。でも、それを通して体験したことは必ず、生きていくうえでの道具になっていくから。

建元さんが持ってきてくれた隊員証

 

「あわたん」で味わった楽しさがUターンにつながった

「あわくらたんけんクラブ」は、今振り返るとどんな時間でしたか。

山下:いや、もう楽しかった(笑)。都会に出たからこそ、貴重な経験をしていたんだなって感じます。あの頃は山や川で遊ぶのは当たり前だったんですけど。

仕事で、都会から西粟倉村に来てくれた方に「昔こういうことをここでやってたんですよ」と「あわたん」のことを話して盛り上がることもあるんです。思い出しながら話すことはよくあります。

ちゃんとその土地に思い出があるわけですもんね。

山下:そうですね。野鳥苑、大茅とか原生林もそうだし。

白籏:駒の尾にも上がったよな。

山下:そう。だから、そういう意味では昔の経験から、今いろいろ話せること、たくさんあるなって。

建元さんは、先ほど「地元に貢献したいって言う気持ちがあって」とおっしゃいましたけど、そういう気持ちはどうして生まれたんですか。

建元:「あわたん」もそうですけど、小学校の授業でも森に入ったり、間伐について話したりして、自然や環境への興味が強くなったんです。せっかくこんな西粟倉村っていう、稀っていうか(笑)珍しい村に生まれ育ったので、残していきたいなっていう思いがあります。ちょっとでも何か自分にできることあるかな、貢献したいなって。

小学生の頃はゲームが大好きだったんですけど、それでも「あわたん」は楽しかったんで、けっこう行っていました。その楽しさがやっぱり、ここに戻ってきたことにつながっているのかなと思いますね。いろいろな経験で、この村を好きになれたっていうか。

「あわくらたんけんクラブ」の参加者に配られていたワッペンと帽子

 

役場や村民のみなさんは、Uターンが増えたり、子どもや孫が戻ってきたりすることを願っているものなのでしょうか。

白籏:ある。強要することじゃないけ、私も自分の子どもにはよう言わんけど、心の中では、「同じ人生過ごすんだったら、西粟倉、けっこうええよ」って勧めたい。「仕事がないが」って思ってるんであれば、「いや、仕事あるよ」って言いたいよね。

山下:両親から直接「帰ってきてくれてありがとうな」とか、そんな話は全然してないんですけど(笑)、周りからは喜んでいるみたいな話を聞きます。

建元:僕の母は、やっぱり安心はしたみたいです。先日父と二人でビアガーデンに行って、そういう時間も持てるようになりました。

 

役場や最後に、今村を離れている人や、これから出ていくことになるであろう村の子どもたちにメッセージをお願いします。

山下:今の西粟倉村は若い人も増えて、村内にいるだけでもいろいろな人たちと関わることができるし、イベントも昔に比べてかなり増えました。仕事や遊びにも熱量をもった人たちが集まっているからとても活力をもらえます! それに、昔はなかった保育園もできたので、子育てもしやすくなっているのかなと思います。

変わらない良さもあって、西粟倉村に住んでいる人たちは昔から本当にあたたかい人が多いです。Uターンしたからこそ改めてそう感じることがあります。仕事が終わって歩いて帰っていると、畑で作業している近所のおばちゃんが「おかえり! これ持ってかえり! 仕事がんばりよ」と茄子を大量にくれたり、小学生のとき担任だった先生と久しぶりに話したときもUターンしたことをとても喜んでくれました。仕事で関わる地元の人たちもいつもあたたかく迎え入れてくれます。西粟倉村は昔に比べて変化していることも多いけど、地元のあたたかさはそのまま残っているから安心してUターンしてねと伝えたいです。

今西粟倉って、目的ややりたいことの思いがあって村に移住するIターンが多いんですけど、村を離れている人には「Uターンはそんなにハードルは高くなく帰ってこれるよ」って伝えたいです。自分が生まれ育った場所にただ戻ってくるだけだよ、って。

私もよく「帰ってきた」って言うと驚かれちゃうんですけど、意外と帰ってくるのってハードルが高くないし、人生の選択肢の一つとしてもっと簡単に選べる未来になったらいいなと思っています。西粟倉村はそういうことができる場所でもあるよと伝えたいです。意外とすぐ大阪にも出れるし(笑)、隔離された場所でもないし。昔に比べて変わってきているんだよってことを伝えたいですね。

建元:今は、昔に比べて移住者が増えて、西粟倉村の良さがどんどん伝わってきているのではないかと感じます。働ける場所も増え、若い人も増えてきたことで、より活気のある村になっていると思います。

僕も同級生はみんな出ていっちゃったんですけど、やっぱり「あわたん」や学校でよく森に行っていて、そういう経験があったからこそ、僕は今ここにいるかもしれないので、そういう経験をしていたら戻りたくなる人もいるかなと思います。子どもたちも、山や森とかに出かける機会があったら、将来戻ってくる人も増えるんじゃないかなと思いますね。

白籏:外へ出とる人に言いたいのはね。「帰ってきたら、『大人のあわたん』やろうや」って。残念ながら、数年前に「あわたん」の活動は終了してしまったけど、できるよ。

山下:(笑)。

白籏:最近、実家の後片付けに週末ごとに帰ってたんですよ。そうすると行くたびに、近所の同級生とか人が来るんです。それで、「お前、今日泊まりやったらウナギ釣り行こうや」「前、松茸採り行った。あれ、ないんかな」って盛り上がるんですよ。

小学校のほんとわずかな時間過ごした先輩とか後輩なん。でも、そういう関係性って特別で、とっても心地よい。表現が難しいけど、地域にいる安心感っていう。こういう安心感の中で暮らすほうがよくない? って思うんだな(笑)。

「大人のあわたん」、楽しそうです。子どもたちも自然の中で探検ができるといいですね。ありがとうございました。

 

「ただいま 西粟倉」特集 一覧

プロローグ “Uターン“をテーマにした特集記事「ただいま西粟倉」が始まります。

Vol.01  「おかえり!」。子どもの頃から知る“あの子たち”のUターン。西粟倉村の子どもの探検クラブの仕掛け人が、帰村した二人と語り合いました。