岡山県

西粟倉村

にしあわくらそん

届け、西粟倉村にUターンをしたい人へ…!Uターンして10年以上経った3人が語る、帰村後に感じたことや村の状況。

2006(平成18)年の創業以来、西粟倉村のローカルベンチャーとして先頭を走り続けている『株式会社木の里工房 木薫(もっくん)』。
村内の森林整備のほか、木製保育家具と遊具の商品デザイン・製作・販売、岡山市での保育園の経営などを行っています。

現在の従業員は34人。
実は、代表取締役の國里哲也(くにさと・てつや)さんを筆頭に、Uターンをした人が少なくないそうです。
今回はUターン者として、國里さん、営業課長の江見寿也(えみ・としや)さん、木工課長の河野魁人(こうの・かいと)さんの三人に、Uターンにまつわる話をお聞きすることにしました。
特に江見さん、河野さんには、Uターンの経緯や思いなどをお聞きしました。
和気あいあいとした三人のトークを、お楽しみください。

 

母が結んだ先輩との縁。「恩返ししたい」という村への思い

— 西粟倉村には2004(平成16)年以降、50名以上のUターン者がいるそうです(エーゼログループ調べ。詳細はこちら)。みなさんの個人的な感覚をお聞きしたいのですが、同級生のうちUターンをした方はどれくらいいますか。

國里:僕は小中学校の同級生が自分を入れて22人いて、みんなが高校進学などで一度は村を出ているはずです。今村内に住んでいるのはそのうち5人で、近隣にさらに2人います。

江見:同級生24人のうち、今村内にいるのは5人くらいです。しかも、その5人くらいのうちの4人が弊社に勤めています(笑)。中学校まで毎日一緒にいて、卒業から20年ぐらい会っていなかった人たちと一緒に働くっていうのは不思議で、おもしろいですね。

河野:僕は25人ぐらいいて、そのうち村にいるのは4、5人ですね。

(左から 江見寿也さん、河野魁人さん、國里哲也さん)

— みなさんが「20数名のうち4〜5人」という状況なのですね。そんななか、江見さんがUターンをした経緯を教えてください。

江見:僕は18歳まで西粟倉村にいて、大学入学を機に大阪へ出ました。正直に言うと、若い頃は田舎が嫌だったんです。自分が三男だということもあって、まさか自分がUターンして家を継ぐとは、一切想像していませんでした。

10年ほど前、『道の駅 あわくらんど』にあった外売店の蕎麦屋を母がやっていて、たまにご飯を食べに来る國里に「てっちゃん(國里さんのこと)、うちの子どもが『帰ってきたい』って言うんじゃけど、働き口ないかな」と相談をしたらしいんですよ。國里は、僕が中学1年生のとき3年生の先輩でした。同じバレー部だったんです。
僕は村に帰る気なんて全くありませんでしたし、その話も知らなくて(笑)。母は帰ってきて欲しかったからそんな話をしたんでしょう。
僕は当時、千葉県に住んでいて、スーパーのバイヤーに転職する予定だったんですね。その報告で母に電話をしたとき、「あんた、國里てっちゃん覚えとるか。西粟倉で会社を立ち上げていて、そこで仕事しないか」と言われて。「いやいや」と焦りましたけど、もう國里の携帯の番号を聞いていて「かけてみ」って言うんです。

國里寿也(江見さんのこと)のお母さんは幼稚園の先生で、僕にとっては「江見先生」なんです。その先生から、僕に「てっちゃん、息子をつこうてくれんか」と言われたとき、「先生、本人はどう言うてるんですか」と聞きました。“田舎あるある”で、身内のほうの思いが先走っているケースはよくあるんですよ。でも「いや、帰ってくるんよ」とUターンは確定している感じだったので、「その気があるんだったら本人から電話ください」って伝えたんですよね。

江見僕はそんなやりとりは知らずに(笑)、先輩だから失礼をしてはいけないと一応電話したら、『木薫』も東京で仕事があって、都内のレストランで会うことになりました。事情を説明してお断りするつもりだったんですけど、当然、國里は僕が「Uターン希望で面接に来た」と思っていますよね。会ってから、(これはちょっと僕が思ってたのと違うな…)と思い、その場で断るのは申し訳なくて「一回考えさせてください」とお話ししました。

母は当時70を迎える頃で、父はその約10年前に亡くなっていたので、家族の状況をふまえ、どうしようか悩みました。それまで僕は東京や北海道など、全国各地で仕事をさせてもらっていました。飲食の店舗やケータリング事業、観光業です。わりと好きなことをやっていたので、そろそろ親孝行というか、親の言うことも聞かなあかんなっていう気持ちがだんだん出てきたんです。

それと、僕は平成の大合併のとき、西粟倉村が合併せずに残ってくれたことが、むちゃくちゃ嬉しくて。当時は北海道にいましたけど、地元の村の名前がなくなるのは悲しいし、自分でやっていくっていう道を選んでくれたことが、嬉しかったんです。当時、すごく感謝したのを覚えています。僕のなかに、それがずっとあったのかもしれません。何かしら僕も恩返ししたいな、と思っていたんです。ずっと西粟倉村にいる友達もいるなか、僕は自分の好きなことばっかりやってきましたから、「いい転機なんかな」と思いました。入社したのは2014(平成26)年、39歳のときでした。ちなみに今年(2024(令和6年)で50歳になります。

実は、木や山には全く興味がなかったので、入社当時は知識がない状況でした。ただ、求められていた仕事が営業職で、お客様が東京や大阪などにおられたので、いろいろなところを訪ねる仕事は僕に合っているなと思いました。そんな経緯で入社して、現在も営業を担当しています。

大阪での美容院勤務を経て、アルバイトを機に21歳で入社

— Uターンして働き始めて、感じたことはありましたか?

江見:どんな職種でもそうでしょうけど、大事なのは気持ちだと思うんですよね。やる気があるかないか。Uターンの人は特に、村に戻って入社してすぐ辞めるという選択肢はないんです。いろいろなつながりがありますから。実家に帰るっていうことはゴールみたいなものなので、「次はない」という覚悟はありました。

村に帰ってきて、子どもと過ごす時間が劇的に増えました。もちろん与えられた仕事は一生懸命やっていますけど、人生って別に仕事だけじゃないと思うんです。社長の前で話すことじゃないんですけど(笑)。以前は仕事が生活の中心で、夜勤もやっていて、子どもの参観日などにも行けず、もう必死に仕事していましたけど、それはやめました。村に帰ってきてからは、子どもたちの試合を観に行ったり、PTAに入ったり、時間の使い方を変えました。

— 河野さんの場合は、どのような経緯だったのですか。

河野僕は高校進学を機に実家を出て、寮生活をしていました。高校は電気科だったんですけど、電気関係の仕事にはそんなに興味がなく、美容の専門学校に進む友達がいて「僕も行こうかな」と、軽いノリで大阪にある美容専門学校へ進みました。大阪で一人暮らしをして、美容院に就職もしたんですけど、そんなに好きじゃなかったなと気づいて、辞めました。

大阪で遊んだり、たまにバイトしたりする生活をしていたので、しびれを切らした親から「戻って来い」と言われたんです。2011(平成23)年、21歳のときに村へ帰ってからは、父の塗装の仕事をたまに手伝っていましたが、ほぼプータローで実家にいたので、父から「働いてこい」と、実家から徒歩圏内にある『木薫』でのアルバイトを勧められました。したい仕事は特にないし、木にもそんなに興味があるわけではなく、木製の家具も好きではなかったんですけど、バイトだけ行ってみようかなと。

國里寿也のケースと同じように、ある日、親父さんから「息子をつこうてくれんか」と言われたんです。うちも忙しかったので、「バイトだったらいつでも、ぜひ」と話して、来てもらいました。

河野2012(平成24)年1月からバイトに入らせてもらいました。保育園への納品が多い年度末は忙しい時期で、3月に「東京へ1週間出張行ってくれんか」って言われて、行きました。つくったものを西粟倉村から東京へ運んでもらって、それを届けるお手伝いです。でも、終わったと思ったらまた次の便が来て、気づいたら3週間ぐらいいたんです。1週間って聞いとったのに(笑)。

ようやく終わって帰ることになったとき、社長と先輩と3人で居酒屋に行きました。そこで社長から「うちで働くか」って誘われて、「分かりました」って。

國里それまでアルバイトスタッフを大勢見てきて、一部ですけど手を抜く人もいるなかで、彼は一生懸命頑張って作業をしてくれていたんです。もし就職してくれたら、うちにとってありがたいなと思って、声をかけさせてもらいました。僕もあの居酒屋、覚えています。実はドキドキしたんですよね(笑)。でも、即答だったよね。その場で返事をくれて。

河野「いや、ちょっと」なんて、もう言えませんし(笑)。もともと何かをつくることが好きだったんで、やりよったら、けっこう楽しいなって感じたんです。家から近いし。そんななか誘ってもらえたんで、「はい、お願いします」って。すぐに4月から正社員になって、勤めて12年になります。仕事内容は家具工場で家具をつくっていて、段取りやスケジュールなども担当しています。

Uターンして、村の活気やオープンな姿勢に気づく

— Uターンして、子ども時代や10代のときに感じていた西粟倉村とは変わったなと感じたことはありましたか。

河野Iターンの方が多くて、いろんなことに挑戦しているので、ずっと地元にいる人たちもいろんなことに挑戦しやすくなっているなと感じますね。活気も高まったんじゃないかなと思います。

江見過疎化が進み、人口が少しずつ減ってはいるんですけど、Iターンの方がいっぱい入ってきてくれて、何とか盛り返してきていると思います。田舎特有の「村以外のものは受け入れない閉鎖的な体質」っていうのは、西粟倉村には少ないなと感じました。移住者の受け入れ体制があるし、けっこうオープンだなと。

そういう環境をつくった役場がすごいなと思いました。夜8時ぐらいに役場の前を通ると、よく電気がついていて誰かが残っているんですよね。「よう頑張ってる自治体だな」と、帰ってきてから感じました。

 

— 村出身で今は村外で暮らしていて、Uターンに興味を持っている方がいるかもしれません。最後に、そういう方に向けてメッセージをお願いします。

江見:もしそういう気持ちを持っておられる方がいるんだったら、僕は相談相手になりますよ。「帰ってきたらこういうところで困るで」っていうネガティブなことも含めて、ぶっちゃけて話しますし、興味がある方がいれば協力します。『木薫』の江見宛にご連絡ください。

Uターンの人は、Iターンの人たちの気持ちも地元の人たちの気持ちも、両方分かる立場だと思うんです。どっちも経験していますから。帰ってきたからこそ、西粟倉村のことをちょっと客観的に見ていると思うので。

河野:僕は、入社前は木が全然好きではなかったんですけど、今はすごく楽しんでいて、家具をつくるのが好きになりました。熱量があれば、1からのスタートでも問題ないと思います。今はいろいろな職種、仕事のやり方があるので、もし心配していたとしても、大丈夫じゃないかなと思います。

國里:さっき寿也がいいことを言ってくれたんですけど、Uターンの方は、実はかなりの覚悟をして就職をすることが多いし、だから逆に言うと慎重に選んでもらいたいとは思います。でもUターンは、本人を知らなくても家族の誰かを知っていて「あそこの息子か」っていう話になりやすく、受け入れられやすい部分はあるでしょうね。もちろんUターンだろうがIターンだろうが、仕事の内容や責任は同じで、誰かの息子だからって、ひいきすることはないです。

また、昔と比べれば、いろいろな面倒くさいことは減ってきています。だいぶ簡素化されました。村は付き合いが大変だというイメージを持っている方がいるかもしれませんが、昔に比べたら楽になってきているので、そこは安心したらいいよって思います。例えば今は、消防団に入らないという選択肢もあるんですよ。少し肩の力を抜いて帰ってきて大丈夫だよ、と伝えたいですね。

— みなさん、ありがとうございました。

 

「ただいま 西粟倉」特集 一覧

プロローグ “Uターン“をテーマにした特集記事「ただいま西粟倉」が始まります。

Vol.01  「おかえり!」。子どもの頃から知る“あの子たち”のUターン。西粟倉村の子どもの探検クラブの仕掛け人が、帰村した二人と語り合いました。

Vol.02  届け、西粟倉村にUターンをしたい人へ…!Uターンして10年以上経った3人が語る、帰村後に感じたことや村の状況。

Vol.03 両親のひと声と、西粟倉村の活気や魅力。この二つがUターンを生み出しているのかもしれない。『NPO法人じゅ~く』の若き二人の帰村物語。

サイドストーリー