岡山県
西粟倉
にしあわくら
「木が安くなっても、山は宝。見捨てるのは忍びない」山主歴65年以上・平田さん(私と百森vol.4)
Date : 2017.03.30
つい最近チェーンソー2台を新調した82歳の現役きこり、平田穂さん。これまで、自分の森を役場に預けないできた山主の1人だ。「百森の反対派にも話を聞こう」と平田さんの元に緊張しながら向かうと、待っていたのは予想外の和やかなインタビュー。山に施してきた手入れの話をし、百森についての素朴な質問をする姿に接して、そもそも百森は、賛成・反対の話ではないのかもしれないと考えるようになった。「預けない」を選択した心は、自分が育ててきた山への複雑な気持ちから。全国の農山村がたどってきた歴史や課題、多くの人の悲観を、代弁してくれるようなお話を聞かせてくださった。
昭和30年代まで:木の需要は「炭焼き」と「焚きもの」
– 平田さんには、子供の頃までさかのぼってお聞きできればと考えています。お生まれはいつですか。
平田:昭和10年生まれで、もうすぐ82歳。生まれも育ちも西粟倉で、生まれてからちょっとも外へ出たことはありません。
– 今は西粟倉村内で小中学校の1学年は10人前後と聞いていますが、平田さんの子供時代には児童数はどのくらいでしたか。
平田:私の子供時代は、今に比べればだいぶ子供が多くて、中学になったときには、影石小学校と西粟倉小学校と合わせて1学年で80人はいました。
– 平田さんの子供時代は、第二次世界対戦の時期とも重なります。
平田:終戦を迎えたのが小学5年生のときですが、子供だったし、戦争の影響はあまり記憶にないなぁ。うちは親父が百姓をしていたから、食べるに困るということはなかったんです。周りの人たちが食料難で不自由した話はよく聞きました。中学に入った頃に、疎開で帰ってきたり新しく引っ越してくる人がいたりして、西粟倉は一番にぎやかでしたね。
– 百姓ということは、平田さんの家にも牛がいましたか。西粟倉の山には、牛の餌にする草を育てる「採草地」があったと聞いています。
平田:牛、おったおった。そりゃあ牛が本場じゃもん。草と米ぬかが当時の牛のえさで、草は1頭を1年養うのに3反分は必要だった。うちは地区では多いほうで7反くらい田んぼを持っていたから、耕耘するのに牛は不可欠でした。
それに、親父が死んで農業を継いだときに、私はまだほんの子供。体力がないから牛の力がよけいに必要だったんです。両親は若いころから大阪にずっと出ていて、結婚して11年も子供ができなかった。いい環境を求めて西粟倉に帰ってきて、2、3年で長女を授かったのですが、私は4人目の子供。だから親父が67歳で死んだときには、私はまだ中学を卒業したばかりだったんです。
3番目の姉はなかなかお嫁に行けませんでした。お袋の介護もあるし、長男だけどまだ嫁がいない私をおいていけないから、と。だから親戚に「早く結婚しろ」と言われて、私は22歳でもうお嫁さんをもらった。今考えると、あの頃はまだ子供でしたね。
– 中学を卒業してからは、ずっと百姓をしていたんですか。
平田:はい。だけど、農閑期は製材所に働きに行っていました。今は「あわくらんど」になっているところが製材所だったんですよ。
– 平田家の田んぼや山は、昔からの持ちものですか。
平田:うちの親父は分家だし大阪に飛び出していたから、親父が西粟倉に帰ってきてから手に入れたものばかりです。田んぼは本家からもらったけれど、山は買い求めました。大阪で鉄砲玉をつくる鉄工所に勤めていて、戦時中は結構よかったらしい。それでちいとはお金があったから、帰ってきてから山をこしらえたということです。その後、採草地の払い下げで手に入れたものや本家から分けてもらった分も含めて、8町くらいの山を所有することになりました。そのうち、最初から植林されていたのは3町分くらいで、今80年生くらいになっています。
– 平田さんの家の山はどこにあるんですか。
平田:このへんの引谷(ひかだに)の山ばかりです。一口に山といっても、昔はいろいろ役割が違いました。採草地はほとんど山の尾のあたりにあって、裾のほうは燃料をとる山でした。今思い出したんですが、薪炭林(しんたんりん)といって、炭焼きの本場だったんです。自然の木を立木で売って、業者が切って炭にしていた。20年育ったらまた炭用の木に育つサイクルでした。あとは、炭ばかりじゃなくて薪をたくさんつくりました。炭を焼くのは技能がいるから立木で売るんだけれど、薪なら誰でもつくれますから。
戦後しばらく経つまで、大原から西粟倉に来るバスも薪で走っていたんですよ。バスのおしりに大きな窯のようなものが据えられていて、そこに薪をくべて火を焚いたガスで走っていました。私はそこに薪を売っていたこともあります。
昭和38年の水害以降:「土建ブーム」から「植林ブーム」へ
– 戦後の西粟倉のできごとのなかで、昭和38年の水害が経済に大きな影響を与えたと聞きました。土建仕事が増えたことで現金収入が入るようになり、経済も発達していったんですよね。
平田:女の衆もみんな外に出て、働いていた時期ですね。西粟倉の財閥といわれるような分限者の奥さんまで土木作業に出ていたくらい。私はその頃、友達に誘われて運送業を7年くらいしていました。その当時は運送業といっても、運ぶのは材木ばかり。智頭に得意先を3、4件持っていたし、自家用の4トントラックで姫路に電柱を運んだりしていました。
運送業をやめたのは、重量オーバーでたびたびつかまって、ついに1年免許を取り消しされてしまったから(笑)。森林組合に入る前に、送迎があるという理由で土建業にも少し携わったのですが、西粟倉村長が、「あわくらんど」を建てるからと人手を募集していて、森林組合に入りました。その頃はまだ木の値段も良かった。土建ブームの頃は、あまり木を切り出すことはしていなくて、その後、山ブームがやってきました。
– 「山ブーム」はいつ頃来たのか覚えていますか?
平田:私が森林組合に入った頃だから、昭和55年くらい。森林組合ではそれから30年、75歳になるまで働きました。その頃には水害の復旧がほとんど終わって、山仕事はひっぱりだこ。「植林しろ」という号令も一斉に出ていました。ちょうど最近、当時採草地に植林した木が育って、出し始めています。
ただ、自分は植林じゃなくて、伐り出す仕事の担当。今のように道をつけるんじゃなく、架線集材(ワイヤロープを空中に張って組み立てた集材装置を使って材を集める方法)という方法でね。西粟倉の森林組合は、上郡や赤穂まで作業をしに行っていました。
– 植林しようと呼びかけるのは、役場の仕事だったのですか。
平田:国の政策だから、村だけでなく森林組合も言ってたな。同時に、「雑木はもう売れないから切れ」とも言われていました。うちの8町の山のうち、雑木林や採草地だった5町分くらいは植林の号令がかかっていた折に植えて、今40〜50年になっています。苗代、下草刈りの費用、枝打ち…ほとんど補助金でやってきましたが、それでも金をかけてきました。
まずは7年間下刈りして、木が1mまで伸びたら初めて枝打ちをして、そこから5年ずつ上にしていって、6mの枝打ちが最後の補助金対象でした。6mの枝打ちはとても自力ではできないし、人を頼んで、1町に70万円くらいかけた人が、私も含めてたくさんいる。そうやって手をかけた木でも、今はタダみたいになっているのが実情です。
100年の森に育てるための手入れをしてこなかった
– 枝打ちに手間をかけたのは、もとがとれるはずだったからですよね。
平田:そうですね。無節の通し柱(本柱)を取るのには、6mの高さまでは枝打ちしなくちゃいけなかった。百年の森林を目指すなら、あの頃にきちんと枝打ちしたものでないといかんね。例えば今になって枝打ちしても、虫が入って腐りが早くなってしまう。百年かけて育てる木は、小さい頃から育て上げた木じゃないと。私の木だって、最初の頃のものは別として、後半に植えたものは3m以上の高さの枝打ちをしてないから、今から枝を打っても手遅れです。そういう山は、炊きもん、チップ用にしかならない。百年の森林構想というのは、いいと思う。だけど、私らの山ではこと足りないんじゃないでしょうか。
– 森林組合で30年森の仕事はしてきたけれど、自分の山はそこまで手が回らなかった。
平田:そうですね。柱用なら、せめて4mか5mまで枝を打っておかなくちゃいけない。でも3mの枝打ちまでがせいぜいだった。そんな木を出したって、いまや1立米6,000円か7,000円。人に頼んで切って出したら送料や手数料も合わせて1万円はかかるから、赤字にしかなりません。今もわしは山が好きで自分で市場に出すしいい木を選ぶから1立米で1万円くらいになるけれど、それはかなりいい例です。
自分が智頭の市場に持っていくときは、4トン車を頼むだけであとは自分でやります。ヒノキも混ぜて出したりして、それでも手元に残るのは4万円くらいだな。
– 平田さんが百森に預けないのは、自分で管理できる間は、自分でやっていきたいという思いがあるからなんですね。
平田:そうじゃ。森林組合にいたおかげで、伐る技術はありますから。この間もチェーンソーをまた2つ買いました(笑)。80年生くらいの木になればチェーンソーの刃が長くなければ伐れない。上の方の枝を切る玉切りには軽いのがいいし、やっぱり3つくらい使いわけています。まだまだ私は現役ですよ。
それでも預けなくてはいけない時が来る
平田: 百森は、いい構想だと思っています。山に道をつけるのは本当にいいこと。ただ、自分の山に関していえば、役場の補助金も利用して全面的に作業道を入れているんです。
うちの91か92になる姉さんの山については、私が役場と交渉して、百森に預けることにして、それで道がつきました。だから、私もまんざら反対というわけでもないんだよ。そういえば、ちょうど今日、姉さんの口座に道をつけるために切った木のお金が振り込まれるって言ってたな。
– そもそも反対とか賛成とかいう話ではないのかもしれないですね。
平田:反対する者が多いのかな。私もどっちかといったら反対に入るんでしょうね。大事なのは、今いくら木の値段が安くなったとはいえ、昔からの山主は、山を宝のように思っているということです。百森の作業が雑に見えてしまうと、山主は簡単には出せんじゃろう思う。だけど、もう10年もすればみんな預けるしかなくなるでしょう。道から遠い上の方の山の作業は誰もやれなくなります。
– 百森の担当の方にもお話をうかがうと、作業については実際に改善すべきところがあったことと、実際とは違う噂が流れてしまう状況と、どちらもある気がします。
平田:まぁどちらにしろ、木が安いことがいかんわい。立米3万円平均で売っていた時代があったのが、今は3分の1の値段。木の値がこれから上がるなんてことはないように思います。
– 平田さんの山は、これからどうしていくつもりなんですか。
平田:山に行くと、元気な木はすごく大きくなっているし、倒れてそのままになっているのもあるし、自然間伐でいいと思うことにしています。建築用材がとれるような森にはもうならん。そうかといって、今までかなり金をかけてきた木を、タダみたいな値段では売りたくない。だから今のうちから、自分の山は原生林に戻るんだと覚悟しています。
山は全部息子に譲渡しているんだけど、彼には山のことはもうてんで分からないでしょう。もうすぐ定年を迎える息子と、2日くらいかけて自分ちの山を歩いてみたりはしてるけれど、どこがうちの山か分かるくらいがせいぜい。管理の仕方までは教えてこなかった。山もあかんし、田んぼもあかんし、困ったものです。
特に引谷はあかん。これから10年の間に11、12軒は家がなくなるでしょう。田んぼについては、委託しようと思っても、鹿が出ることを一番の理由に、誰も引き受けてくれない状況です。そのままにして周りに迷惑をかけるわけにもいかないし、今までは草刈りさえしていれば補助金ももらえたんだけれど、去年からは耕耘もしなくちゃいけなくなった。それは私が持っているような古いトラクターではとても無理。困ることばかりで、田んぼはどうしたものかと悩んでいます。その点、人に迷惑をかけずに自然に戻っていける山の方が、まだましなのかもしれませんね。
取材の後、平田さんの山に一緒に向かった。「2月の大雪で少し痛んだ木を伐ったんだ」と見せてくれた立派な杉が数本。その木を自分で運び出すために、軽トラックには、木の衝撃を和らげて積むための丸太が、きれいに据え付けられていた。「いくらくらいになるかなぁ」と市場に出すのを楽しみにしている様子の平田さん。「まぁ、だいたい値段は分かるんじゃけどな。最近はその予想よりも下回るばかりじゃ」と寂しそうに言った。