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西粟倉

にしあわくら

百年の森を伝える教育
西粟倉の子どもが、未来へ森を継いでいくには・関正治教育長(私と百森vol.12)

いま、「100年」は途方もなく長い時間をあらわす言葉ではなくなっている。いまや人生ですら100年時代。「百年の森林構想」の理念は変わらずとも、人間の営みや体感する縮尺は、変化し続けているのかもしれない。
西粟倉村が合併の道を選ばずに、百年の森林構想を打ち出したときに、ちょうど50歳だった関正治さん。村がどんな道を進んでいくかのキーワードは、森とともに人がどう生きていくか、次世代に継いでいくかという問いにおいて、年々重さを増しているという。
長年、自由な風土の、別の言い方をすれば、なんでも自分でやらなくてはいけない役場に身をおいて35年。今、「継いでいく」を先頭で考える教育長という立場にあって、考えることについてお話ししてくれた。

 

DIY精神あふれる西粟倉役場の風土

– 関さんは、西粟倉で生まれ育ったのですか。
関:はい。高校はその頃みんながそうしていたように、村を出て下宿をしていました。東京の大学を卒業して戻ってきて、そのまま役場に入りました。それから35年間勤続です。

– じゃあ7年間だけ村外で暮らして、あとはずっと西粟倉なのですね。大学卒業後、外で働こうとは思わなかったですか。
関:いやいや、僕、帰ってこないという決意をしていたんですよ(笑)。東京進学した時から、「僕はずっとここで暮らす」と。
でも、大学4年で就職が決まっていたときに、病気をしたんです。半年くらい入院することになってしまって、ここでずっと暮らすのもなぁと思い出したら、親も帰ってこいって言い出して。それが、たまたま役場が初めて人を募集するタイミングだったんです。役場に受かって、帰ってきたのは昭和56年ですね。

– どういう心境の変化でしょうか。まず絶対帰ってこないと思っていた理由も気になるし、病気をして帰ってくると決めた理由も知りたいです。
関:東京は刺激的でおもしろかったから、魅力的だった。だけど、病気で弱気になっていたのかもしれないけれど、「田舎で自分のしたいことをすればいい」っていう理由を、自分の中に宿らせた気がしますよね。
で、帰ってきてみたら、田舎はとてもおもしろい。なんせうちの村は、自分が思ったことができるんですよ。その楽しさにハマっちゃって。

– それは35年前でもそうだったんですか。
関:ですねぇ。たとえば小さなイベントや事業をやりたかったら、補助金を自分で申請するんです。あの頃も「地域活性化」という言葉があって、コミュニティを活発にするための補助金が出たりして、祭りの運営費の一部に当てていました。予算をとってくれていたら、上司もだいたいOKしてくれました。
そういうことをやっていると、村の人に喜んでもらうことに生きがいを感じるようになってきました。もちろん、本当に村の人の気持ちをわかっていたかは疑わしいですがね。村の人は本当に優しい人が多いんで、少々の失敗があったとしても許してもらえるところがあったんです。

– そうすると、失敗を恐れずにいろんなことにチャレンジできますよね。現在の西粟倉役場も、どんどんチャレンジするイメージのまま。すごく、稀有な役場だと思います。
関:上に立つようになったいまは、若い人に向かってあまり条件を言わないようにしています。ある意味風土なんでしょうね。チャレンジさせるのが当たり前になっています。

 

無謀に感じた百森のはじまり

関:僕の行政経験の中でざっくりいうと、15年間くらいが総務系。あと15年が保健福祉の分野にいました。残り5年間が教育委員会勤務で、今2年目の教育長をしています。
2004年、西粟倉村は合併をしないと決める直前に総務企画課に異動になりました。合併の協議を7つの町村が集まってやっていて、西粟倉からも協議会に出たり、合併のための事務局に職員出向したり、合併するのが前提で動いていました。
でも、当時の道上村長はたぶん、腹はくくってたんだろうと思うんです。「合併じゃないだろう」と。情勢を見ながら、村民の意向を踏まえながら、あるべき道、進む道を決断されたと思います。
あの時の2004年度の1年間に、重要なことをいっぱい決めなくちゃいけなかった。町村合併のメリットがある期間って、2004年度中に完全に協議を済ませることが前提で。

当時を振り返りながら言葉を紡ぐ、関さん。

2004年の時点で道上村長は、村が生き残っていくために、行政をスリムにしていく方向へ舵を切っていました。村民にもお話しする機会をつくっていて、「この助成金はカットしなくてはいけない」とか、厳しいこともたくさん言って理解を得ていました。
合併するとしたら、西粟倉はスリムになって合併しようと準備していた。その感覚に他の6つの町村はついてこられなかったと思います。合併への認識にギャップがありすぎて、もし一緒になってもうまくいかなかったんじゃないかな。

– 1年で合併したら、最大のメリットは何なのですか。
関:たとえば、合併時点の交付税を10年間保証しますというものです。

– 1つになるけど、そのままってことですか。
関:通常の交付税は、人口が減ってくると交付する金額も減る仕組みなんだけど、合併時点の人口のまま仕送りしますよ、と。加えて、新しい市をつくるための財源は借金してもいいですよ、1億円借金したらその裏の70%は面倒見ますよ、という「合併特例債」というのもありました。

– 普通に考えたら、おいしすぎて怪しいですけど……。他の市町村は、少なくとも財政面では「合併できるのはラッキー」という状態だったのに対して、西粟倉はスリムにしなきゃという考えになれたのはなぜでしょう。
関:2004年の時点で、国そのものの経済が横ばいの状態だったので、今後、地方への交付金が増えていくわけがなかった。減ることを前提に財政を見直さないと、無理なんですよね。
そういう状況だったから、持続可能な地域をどうつくっていくか、この地域が生き残っていくにはどういう風になるのがいいかを真剣に考えました。現状をみたときに何が足りないのか、課題の解決をしていったのです。
国の流れを振り返ると、2004年頃は、「地域の再生」という言葉が流行していました。地域が弱っているから、「再生」をって。地域の強みを生かして、もう1回地域おこしをしていくという考え方。今は違いますよね。リニューアルでは追いつかなくなっていて、創って生みだすところから。

– なるほど、そうですよね。再生じゃなくて創生。
関:そうなんです。今のほうが切迫していますよね。
話を戻して、村の強みを考えたときに、うちの村には200年育まれてきた林業がある。でも、それが疲弊しているから、もう一度資源を生かそうと始まったのが「百年の森林構想」です。

百年の森林構想を図式化した図

「さあ、再生」と始めようと思っても、本当に木の価値を信じているかというと、信じている人もいたけれど、世界経済から考えても、昔のようになることはありえないって諦めムードもありました。木に対する投資の気力っていうか、想いはね、失せていた。

– 関さんもどっちかというと、そういう気持ちだったのですか。
関:ですね。難しいと思いました。
ただ、「一次産業がなんとかなったらおもしろいよ」ってその頃から関わり始めた牧さん(現・エーゼロ代表)はじめ、言ってくる人がいたんです。環境面からいっても持続可能な社会や国土って大事だし、もう一度そういうところに挑戦する発想はおもしろいと思いました。第一、うちには一次産業しかないわけだから(笑)。
でも、間伐材を売っていくって本当に大変だし、サイクルが長いので、資金をどう動かしていくか非常に大変な苦労をしてきて、いまがあります。

– 合併の時期の話に少し戻すと、村民の合併への意見はどんな感じだったのでしょう。
関:合併の話が出てから3回、合併するかしないかのアンケートを取っているんです。最終は、2004年にアンケートをとっているんだけど、結局結果は6対4でしない派が多かった。
自分の投票についての理由も書いてもらって、記録も残っていますが、いろんな意見がありました。「お国に逆らっちゃ、世の中生きていけない」というのもあれば、「合併」に入れた人の意見でも理由を読むと、あなたの願いを叶えるためには、合併しないほうがきっとうまくいきますよってことが書かれていることもありました。みんな、混乱しているし、想いが交錯していました。村長が説明していくのも難しいことだし、行く末を想像しながら、想いが一致するというのも難しかったです。

 

合併を機に磨かれた合理的な考え方

関:うちは、中学校のプールもないんですよ。老朽化して新しく作ると2億円かかる。じゃあ、温泉プール施設が近隣市町にあるから、そこに行けばいいじゃない、と。何年かは近隣のプールへ行ったようですが、いまは結局小学校の浅いプールで泳いでいます(笑)。今は学校のプールって飛び込み禁止だから、ちょうどいいかもしれません。
村民体育館も、今度つぶすんです。人口1500人に満たない村なのに、小学校と中学校の体育館も村民体育館もあって、1個減らしちゃっていいんじゃない、と。中学校の体育館を使うんですが、競合することはほとんどないんです。社会人が使うのって主に夜だったりしますから。土曜日には少し調整が必要ですが、合理的な方法を考えようというのは、合併を機に普及してきた考えです。

百森を改めて振替えると、ポジティブな言葉が出てくる。

– 合併しないって、西粟倉にとっては一番大きな、合理的なはずの決断をしているわけですものね。
関:虫の目、魚の目、鳥の目ってあるじゃないですか。僕が百森を評価しているのは、魚の目をもって決断したことだと思うから。ミクロなことをしていたら、気付いたら時代に逆らってうまく泳げない時ってあるんです。
あの頃は、国を挙げて地方の再生をうたった時代だった。ということは、そこにしかお金が降りてこないんですよ。今だったら創生にしかお金が降りないように。
もう一つ思ったのは、西粟倉村は、零細な林家がいっぱいいるところだったんですね。ということは、林業にてこいれすれば、みんなに還元できて、波及効果大きいと思ったんです。
経済的な効果で考えると、「百森」って難しい部分もたくさんあります。杉の木は70年くらいのサイクルで切るのが効率がいいですが、それでは採算が合わない時代になっている。だから、伸ばしながら生き延びていこうとしているのですが、百年の木がたくさん売れるのかというと難しいです。

でも、「百森」の意義はそこには収まらないと思っています。百年の木を育てるのに、三世代は絶対いります。都会の人には壮大に見えると思いますが、西粟倉で暮らしていると300年も昔からあるお墓が当たり前に道端にあって、世代を継ぐイメージが持ちやすい。そのことに意味があるんです。

 

百森という言葉の力で広がる村の教育

– 森に対する伝え方や価値観は、今の西粟倉村の教育分野ではどう生かされていますか。
関:みなさん思い起こしてみると、両親や尊敬する先生から、何かしらのメッセージを聞いて育っていると思います。
それが、子どもの育ちの中で大事な意味があって、その人が持つ価値観の元をつくっているとの実感を強めています。うちの村の中の子どもたちは、育った村にどんなアイデンティティを感じてくれるか。「百年の森林を育てている村なんだよ」と語って育てているなかで、それぞれのイメージを持ってくれるんですよ。具体性がなくても持ってきたりする。そのことを大事にしています。

役場職員も講師として、百森の授業に携わる。

– 逆にそれぞれのイメージを当てはめる余白があるからいいかもしれないですね。
関:そう、勝手に想像してもらっていいのかなって思います。
育ちの中で、もともと持っている脳の潜在的な能力が目覚める時期がある。その時期に合わせて「百森」をどう子どもたちに投げかけていくかが問われます。
西粟倉では、保育園から中学校までの間に、「百年の森林」という言葉を大事に扱って、山を最大限にいいなと思える経験をしていくことに意味がある。幼い頃には、感覚や遊びを通して、いろんな五感から森を感じてもらえればいいですね。
小学校入ってからは、4年生で「村ってなんだろう」という学びが始まります。村の歴史を学ぶなかで村に木が植えられた意味を知ったり、森の作業をしているところを体験させてもらったり。授業で経験できるようにしています。
最後5〜6年生くらいになったら、村のために自分が何ができるか、将来を考える気持ちを引き出していくのが目標です。

百森があることで、実際の山の授業に深みが増す。

– 「百年の森林」という言葉を、村の子どもたちは聞きながら育っているんですね。
白岩:子どもは、最初は言葉として知っているだけなので、すごく間違えていて(笑)。でも、それも楽しいんです。ただ単に百年育った木や森があると解釈している子も結構います。それが実際の山に行って、これから残していくんだという未来の話もするんです。そうすると、自分たちに何ができるか、それを誰に伝えるかということを考え始める。そのために自分たちがしっかり深めていくのが百森の教育だと考えて進めています。
百年の森林については、「みんなのために昔の人が残してくれている森を、次はみんなが次の子どもたちのために残すんだよ」と教えるのが、一番大事だと考えています。それが持続可能性ということです。
受け継いでいくことを座学だけでやっていては伝わらなくて、それに関わる人たちがたくさんいて、その人たちにどういう話を聞けばいいかを総合の学習を進めています。さっきも教育長がズバリ言われたんですけど、最終的に育ってほしいのは、自分たちが村に何ができるのか、自分たちで考えられる子どもです。

インタビューに同席いただいた教育委員の白岩将伍さん。

– 来年4月にできる保育園の計画もすてきですよね。自分が暮らす土地の木で建てる園舎は、貴重です。
関:そうですね。村の木というよりももっとせばめた、杉やひのきの「学校の森」も西粟倉にはあるんですよ。

4月に完成予定のこども園の完成予想図。

– それは、小学校や中学校の持ちものということですか。
関:そうです。いま、エーゼロさんたちのオフィスがある旧影石小学校も、村のみんなが木を提供してできているんです。
だから、次の学校を建てるとき用にと昔の人は木を育てて用意しておいた。いま、そこに小中学生が関わって、下草刈りや枝打ちをして、一連の木が育つ作業に関わっています。

中学生による下刈りの様子。

 

子どもも、森も、村も、健やかに育ってほしい

関:西粟倉の子どもたちに身につけてほしいのは、生き抜く力、「レジリエンス」だと思っているんです。ぎゅーっとしなってもまた戻る、そうやってしなやかに生きていってほしいんです。
そのレジリエンスってどうやって生まれるかなと考えたりしますね。その中に楽観性だったり、ユーモア性だったり、いろんな要素が、ポジティブであったり。よくよく考えるとその中にたくさん学ぶことがあるよなあと。

教育長の言葉を丁寧に拾い上げていく白岩さん。

多様な体験を通して、強さは育まれると思います。大きな失敗をいきなりしたら挫折になるけれど、日常のなかでトライ&エラーを、村の中でいっぱい体験してほしい。いろいろな人と会う体験も、幼少期から積んでいけたら。せっかく日本国内外から村に視察に来る人がいて、いろんな人と交わるチャンスがあるのだから、うまく連携して機会を生かしていくのが、今後の課題です。

– 最後の質問ですが、百年の森林構想の到達点、2058年には関さんは何歳ですか。
関:どうなるかな……あ、ちょうど100歳じゃ。

最後まで、笑顔はなくならない。

– ということは、関さんが50歳くらいの時に百年の森林構想ができたということ。百年の森林構想と人生が完全に重なっているのも、おもしろいですね。村がこうあってほしいという希望はありますか。
関:ここの窓からちょっと見えているヒノキの森がありますが、あの森が200年なんです。小さく見えるんだけど、目の詰まったものすごいきれいな木なんですよ。あれは素晴らしい。

200年の森から、村を眺める。

よく想像するのは、あんな森がたくさんできればいいなぁということ。自分たちを育んでくれた森を、次世代に継ぎたいという想いがちゃんとつながっていけば、きっとそうなるんじゃないでしょうか。
100歳になって生きていたら、あのくらい美しい森の中をひ孫くらいに連れられて、木を触りながら散歩したいですね。

中学校の校庭で。

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