岡山県
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「いつかは人の手に委ねざるを得ないとしても」山仕事が身近な最後の世代、萩原さんの葛藤(私と百森vol.5)
Date : 2017.04.19
明治生まれの父を持つ萩原武寿(たけとし)さん(69)にとって、山に分け入っての親の手伝いは、幼い頃から日課のようなものだった。周りの子供たちが遊びに興じているなか、しっかりと「労働力」として期待されていた萩原さんの体には、山仕事が染み付いていたそうだ。国鉄職員になり山を管理しない時期もあったが、西粟倉に戻って山仕事も兼業で行うようになってみると、父の教えを次々に思い出したという。
萩原さんの倉庫には、自作の山仕事の道具がたくさんある。それらは、父から受け継いだものと、自分の国鉄での経験も生かしてつくったもの。自分の山を自分で守るために、淡々と山仕事を続けている。
働き手として鍛えられた子供時代
- 萩原さんの子供時代の話を聞かせていただけますか。
萩原: 5人兄弟の4番目として西粟倉で生まれ育ちました。明治生まれの親父だったから、小学校の時から畑にも山にもずっと連れ回されていましたよ。「学校行かんでもいい」とまでは言わんけども、学校が休みの日はしっかり働き手としてあてにされていました。朝起きたら、ちゃんと弁当が置いてあるんです。小学校の同級生は手伝いなんてしていなかったけれど、親父は厳しかったし、4つ上の兄貴がめんどくさがるもんだから、「兄貴を連れて行け」と言われてね。
− 萩原さんの家にも、牛はいましたか。
萩原:おった、おった。大切な道具やわ。牛は口がついているから、人間は休んでも牛の餌は休むわけにいかない。牛の世話は子供の大切な手伝いで、採草地や畑に草刈りに通ったもんです。牛がいたのは、昭和35年ぐらいまでかな。牛がおるかおらんかで田舎の生活がガラッと変わって、百姓の仕事も変化した。餌の仕事が一切要らんようになったのは大きかったように思います。
− 牛が耕耘機になって、今まで1年中草取って餌を与えていたのが、ガソリン入れたら動くわけですね。
萩原:そういう意味では仕事が大分少なくなりました。私は親父が厳しかったら仕事もたくさんしたけれど、当たり前に百姓仕事をした最後の世代だと思う。同じ年でも、子供時代に山仕事をしていなかった人はたくさんいますから。
私は中学を卒業して西粟倉を出るまで、枝打ち、間伐、木を倒して運び出したりもしていました。木の良し悪しや見分け方の知識も、親父についていくなかでずっと勉強できた。学ぼうとしたわけではなく、親父との会話の中で自然と身についた。それがあったから、大人になって西粟倉に帰ってきたときに、困ることがなかったんだと思います。
国鉄職員、兼業百姓になる
− 中学卒業後に村を出て、どちらに行かれたんですか。
萩原:今はもうないんだけど、3年間全寮制の国鉄の養成校へ行って、そのあと神戸の鷹取工場で10年ほど働いていました。その頃、西宮に親父がアパートを建ててくれて、家賃収入ももらいながら暮らしていました。そのアパートは昭和41年に建てたんですが、西粟倉の自分ちの山から運んだ木で全部建てたんですよ。大阪にいた大工のおじが建てた。
その頃、西粟倉には兄貴がいたんですが、「わしゃもう鳥取出て喫茶店でもする」言うて、実家が空き家になってしまった。親父とも話し合って、僕が当時住んでいた西宮から帰る決断をしたんだけど、ちょうど結婚して1年ぐらいだったから、嫁は大反対(笑)。
− 確かに、西宮暮らしから山奥に戻るのは、ギャップがありますね。
萩原:徹底的に反対されたんだけど、半ば強引に戻って来ました。それが昭和51年のことで30歳だったかな。そのとき、仕事もやめなくちゃいけないと退職を申し出たんです。すると「萩原君がそげん言うんじゃったら、国鉄じゃで田舎に何とか転勤先を探してやる」と言ってもらえた。労働組合の活動もしていて、それなりのお偉いさんとも面識があったのが幸いしましたね。
それで鳥取県の智頭町(西粟倉から車で約20分の距離)に保線があって、工場から保線へ異例の転勤ができた。直接異動はできないからと米子の客貨車や気動車屋というところに一旦行って、それから智頭に行くのに1年はかかりましたけどね。
−農業や山仕事はお休みの日にやっていたんですね。
萩原:そうそう。だから山主っていってもそのレベルですよ。だけど、国鉄に勤めていたのも役に立っていて、自分の山の小川に小さな橋をかけているんですが、その設計から材料調達まで全部僕がしました。保線にいたから、レール交換していらなくなるレールを、担当者に頼んで僕が買って、いらない枕木も調達して、橋をつくったんです。橋の他にも、自分で発明した木登り道具を溶接してつくったりできるのは、仕事で培った技術のおかげですね。
− 村を出て15年後にまた帰ってきて、ブランクがあったわけですけど、それでも子供時代に染み付いたことが生きていたんですね。
萩原:とくに、山の作業で困るということはなかったですね。ある意味子供時代に苦労したのは、良かったんかなとは思う。ただ、百姓をする中で、稲の刈り時や消毒のタイミングは分からなかった。近所の人の作業を見て「あそこのが今日消毒したなから、うちのもせにゃいけん」と、次の土日にする。常に一週間遅れで田んぼの仕事を覚えていきました。
−萩原さんの家の山は何町くらいあるんですか。
萩原:親父が元気だったときには20町近くあったかもしらんけど、親父は5人兄妹にひとつずつ山を分け与えたから、自分が持っている分はそんなに多くないですよ。嫁に行く娘にも山をつけてね。「この山はお前の山だよ」というようなかっこうで。
− 子供たちにそれぞれ山を託す気持で、山を育てていたんですね。
萩原:そうです。だからきょうだいみんな、山をひとつずつは持っていて、僕はそのあたりの小さい山を5つ6つ持っています。結局、いろいろな経緯があって、妹が一番いい山を持っているんですが、彼女は村外にいるので、ずっと僕が管理してきました。そのつど妹らに電話して「今度の日曜日、帰って来いや一緒に山行こうや」と言うと夫婦で戻って来てくれて、僕も含めて3人で作業をしてきました。その森は、3年前から百年の森林構想に預けています。これから管理もできなくなるから、制度を利用した方がいいと考えました。
村全体の山を見渡すのが百森の仕事
− 萩原さんが丁寧に管理をされているのなら、まだ預けなくてもよかったんじゃないかなという気もするんですが…
萩原:とはいえ、そう遠くない未来に誰も管理できんようになるのは分かっているからな。でも、初めて百森の作業が入ったときは、ごっつ気に入らなかった。自分のこだわりもあるし、役場へ怒りに行ったりしたんですよ。
作業する前の打ち合わせで納得していたんだけど、終わってみたら山が道だらけで、必要以上に木も切られてるように見えてしまって。間伐もすればいいわけでなし、密度を低くしすぎたら台風で倒れやすくなるとか、日が入りすぎて下草がすぐに伸びてくるとか、問題もありますから。
作業の仕方についても課題があります。僕らやったら、一寸でももったいないから根を掘るように伐れって親父から教育を受けているけれど、百森の作業の後に山に行って搬出した後を見ると、株の一番いいところがごろごろ放り投げられている。それと、僕らは木が衝撃で折れたりしないように、必ず上の斜面に向けて木を切っていました。でも、今は機械で下から引き上げるほうが楽だから全部谷に倒している。中には折れとる木もある。そういう作業のやり方時代の変化は、時代が変わったんでしょうね。
2回目に川の向こうの上がり口をやったときは、よく話も聞いてくれてかなり納得のいく作業になった。1回目のようなことはなくて、みんな反省も生かしていい作業をするようになっていて。だから満足はしているんだけどね。
− 昔と違って、どうしても木より機械の都合に合わせて効率を重視しがちです。
萩原:それが地主と、仕事する者の差になってしまう。昔は、株の根本の方はいい木として取って、家の垂木を取って、先の細い方は建築用の足場材や「はぜ」といって稲を掛ける棒にした。はぜは1m50cm〜2mくらいの棒で、子供の自分には山から戻って玄関先で皮をむいて、100本くらいつくって、売ったりしていた。今、作業をした後の山には、まだまだ使える木が捨て置かれていて、もったいなく感じます。人夫賃が高いから、手間をかけたら赤字になるのは、分かるけど…。
木は、どこも捨てるところがないはずなんです。皮でも、ちょうどいい時期に切った木なら、するするっときれいにむけて、それを1mくらいずつにして谷底に落として積んでおいて、秋になったら背負って売りに行ったものです。杉皮で葺く屋根に使われていたんですね。
今、仕事も退職してちょこちょこ山の作業をしているんだけれど、僕は近くの山で作業をしたら、出せるものは全部持ってきて、畑で草を焼くときの焚きもんにしてますよ。だから僕の作業後の山はきれいなもんやで。奥の方の山はどうしても無理だけれど。
− そういう意味では、自力でやるには不便な場所だけ百森に預けられたらいいですね。
萩原:手入れがされていない森でこそ、百森の価値が一番出るでしょう。この大茅でも、地元の人の名義の山はさほどない。だいぶ前に人に売ったり、子供みんなに名義分けしてあって、みんな村外に出ていたり、集落にいない人の名義が半分以上です。
妹の息子も東京にいるから管理もようせんし。預けてええか悪いか結果は分からんけど、管理ができないのなら、と僕が勧めたんです。僕の山も奥の方は、ようせん。奥はみんな手入れせずにあきらめているし、手を入れようにも道もないし。地主もそういう場所なら預けてやってもらいたい気持ちがあると思います。
− 役場の方に話をうかがってみても、山主さんの気持ちにそえるように試行錯誤している様子でした。役場の皆さん森林組合の皆さん、山主の皆さん、それぞれの目指す山像も違うと思いますが、百森のプランが多様化していく必要性はさまざまなところで耳にします。
萩原:地主は自分の山のこと、自分の山の木のことしか考えないところがある。役場の人はひとつの山だけじゃなくて、村全体の山のことを考えて事業を進めていく。大変なことだけれど、誰かがやらなくちゃいけないのは理解しているんだ。意見を聞き入れながらよくやってくれていると思っています。
西粟倉産の「付加価値」を知ってほしい
− 萩原さんからすると、今の木の値段は不本意ですよね。
萩原:不本意じゃなくて、どうにもならんわ。これが日本全体の問題。値打ちが出るような要素を僕も思いつかんし、もうどうしようもない。西粟倉でも丸太に加工するとか、いろいろ考えているみたいですね。テレビで見たんだけど、製材して圧着して鉄よりも強い柱ができるとか、あとはバイオマスの発電所とか、いろいろあるんでしょう? 西粟倉の木は、これだけ雪が降って寒いところの木だから、材質はいいんですよ。
−寒いところのほうが木はやっぱりいいんですか。
萩原:ええよ、そらもう全然。暖かい場所で育てば早く大きくはなるけれどそれだけ目は詰まっていないし、虫が入りやすい。西粟倉の中でもここらの木の目の詰まり方はいいんですよ。寒いとこほど木は大きくなるのに時間がかかるけれど、いい木ができる。だから、西粟倉の木は特別に売れるようなものができたらと、僕は思うんですけどね。
− 森の学校のユカハリタイルは、間伐材を50センチに切って、50センチ角のユニットにしていて、立派な木はあまり出ない前提でつくった商品です。丁寧に手入れされた木を、より付加価値の高い商品にしていくことが課題ですね。
萩原:ユカハリタイルは前に見学して、いいことだなぁと思っていたんですよ。確かに、ええ木はええ木、悪い木は悪い木として分けて考えていく必要があると思います。そして、いい木で上質の商品をつくって、「西粟倉ブランド」みたいになっていく足がかりになりゃせんかな、と。山主は、手入れしただけは値打ちを出したい気持ちがある。ただ、僕らは売るということに関しては素人だからなぁ。
− それだけ苦労してやってこられたんですもんね。息子さんは山を継ぐ予定なんですか。
萩原:うちの息子は僕らが子供の頃と違って、山にも連れていかなかったし、山は「要らんわ」と一言でいうタイプじゃないでしょうか。僕が死ぬまでに、一度は自分の山の場所くらいは見せておかないといけないとは思っていますけどね。売ることもできないし、手も入れられなくて、そのまま孫のほうにいってしまう気がしています。どこの山も同じような状況じゃないですか。
– そうなると今後の百森の意義は大きくなりそうです。
萩原:木の値打ちがなくなってきたここ何十年、ほったらかしにされている山が多いですからね。間伐にしろ枝打ちにしろ、手入れをしなくちゃいけん山ばっかりや。今の時代に、僕みたいに自分で枝打ちしたりする人は、この村でももう少ないと思う。僕みたいに木のこと思うとる人も、あんまりいないんじゃないでしょうか。子供の頃から親父に鍛えられたのが大きいんでしょう。親父の想いを受け継いでいるから、自分ができる間はがんばって木や森を守る手入れを、やり続けたいですね。