岡山県

西粟倉

にしあわくら

木の薫りを次世代の子どもに届けるために、森を守り家具をつくる

2008年、西粟倉村では、村ぐるみの「百年の森林構想」を打ち立て、林業を中心に据えた地域づくりをすすめていくことを宣言しました。その頃から、西粟倉には移住者が増え、さまざまなかたちの挑戦者たちが、それぞれの生業で注目を浴びるようになりました。
しかし、その地点からさらに2年ほど先んじて、西粟倉初のベンチャー企業ともいわれる「木薫」は誕生していました。代表取締役は、西粟倉村で生まれ育った國里哲也さん。長男だから、と仕事も選ばずにUターンしてきたはずなのに、森林組合で仕事をするうちに気持ちは変化。「森を次世代に残すために」というぶれない信念を携え、都市部の保育園・幼稚園に木の家具と遊具を届けるために奔走しています。
 

ふるさとに帰ってくるために、仕事は選べなかった

– Iターン者が多くて、新しい住人が仕事を興している印象を受ける西粟倉ですが、國里さんは生まれも育ちも西粟倉村なんですよね。

國里:はい。高校を卒業してからは大阪に住んでいました。2年間は学生をしていて、その後2年間は社会人。だけど、22歳になる直前に帰ってきました。

– 林業や木のことに関わる学校や仕事だったのですか。

國里:いや、全然関係なくて(笑)。薬学の勉強をしていました。木に関わる仕事をするなんて夢にも思っていなかったし、山に囲まれて育ったけど、実際にそこにある山の状態に関心を持ったこともありませんでした。

– 将来、食いっ逸れないような仕事、というような進路の選び方ですよね。

國里:なにか選ばなきゃいけないから選んだ、そんな気持ちで決めたんでしょう。今だからいえる本音ですけど。就職して製薬会社の営業になったんですけど、ちょうどバブルが崩壊した後だったので、業績は落ち込むばかりで大変でした。
 


木薫がつくっている保育園、幼稚園の遊具

– 若いうちに西粟倉に戻ることは、前々から決めていたんですか。

國里:いいえ。長男だし男は自分だけの兄妹なので、”いつかは”帰ろうくらいに思っていました。だけど、大阪で働いている間、コンビニ弁当ばかり食べていて、「このままだと俺、50歳で死ぬな」と漠然と不安になっていったんです。それよりは、仕事を辞めて早く帰った方がいい気がしたんです。いろいろしんどかった。いろんなものにくじけて、とどめがコンビニ弁当だったんだと思います。

– 西粟倉に帰ると決めても、小さな村で仕事を見つけるのは大変だったのではないでしょうか。しかも、今までの職種を活かす、なんてことは難しそうです。

國里:西粟倉に帰ると決めた時点で、選択肢がないのは覚悟していました。大阪にいる間に次の仕事を探したのですが、西粟倉村内に「求人」をしている企業は何もありませんでした。僕の親が、「定年退職する人がいるから誰か補充しなくちゃね」と森林組合の人たちが話しているのを偶然聞いただけなんです。僕は、森林組合が何をする組織なのかも全く分からずに面接を受けて、説明を聞いても山に関係するんだな、としか分からずに内定通知をもらってしまいました。そんな状態で平成7年の2月に森林組合の職員になったわけですが、結局11年働きました。

– どんな仕事をしていましたか。

國里:森林組合に入って1年はひたすら現場仕事でした。事務方の採用でしたが、2日目からは伐採の現場に行って、ゴミを片付けるなどの手元作業。それに慣れてきて、一番簡単な機械を許されて、と結局ずっと現場の仕事。あまりに外の仕事ばかりで、事務所に行ったら自分の机がなくなっているかもしれない、という不安が常にありました。若手育成が体系だってあったわけでもなかったですから。

– 当時、西粟倉森林組合の職員は何人くらいいて、どういう年齢の構成だったんですか。

國里:事務方が8人くらい。現場が40数人だったかな。年齢構成としては、僕が入ったときに現場の作業員の平均年齢は50歳以上でしたし、内勤の事務方も40歳くらいの人が多かった。若手と呼べる人はいなかったし、男性ばかりでしたしね。
 


木薫の工房の作業風景
 

日本の林業問題を、自分事として捉えられるようになる

– かなり不安な始まりだったのに、勤続11年は結構長いです。その間、どのような気持ちで働いていたのでしょうか。きっと変化もしていったのだと思いますが・・・

國里:すごく大きな11年間だったと思います。最初は夢なんてなかったし、そこしか行くところがないから入った。2年くらいは、時計を見ながら仕事して、5時になったら、「やった! 飲みに行くぞ」みたいな感じでしたね。仕事に対して使命感なんて持っていなかったです。僕が変わったのは、ある山主さんとのやりとりがきっかけ。森林作業道の設計担当のとき、非常にいい山を育てている70代の山主さんから「自分の山に道をつけたいから、一度見に来てくれ」と呼ばれて、「どうやったら木の値段は上がるかね」と聞かれました。木材価格は昭和55年から下がり続けていますから、僕は何気なく「いやぁ無理じゃないっすかね」と答えたんです。

– だいぶ若気の至りな発言のような・・・

國里:20そこそこの若者が、今思えばよくいったと思いますよ(笑)。僕の言葉を聞いて、山主さんは、ものすごくがっかりした顔をしました。そこで僕は初めて自分を恥じました。山主さんはそれまでずっと一生懸命夢を持って山を育てていたのに、政治的なことに巻き込まれてしまった。要は国は車を売りたいから木材の関税を撤廃したんです。それで安い外国材が入ってくるから国産材が売れなくなってしまった。この山主さんとの会話をきっかけに、日本の林業の問題を、どうしていけばいいんだろうと本気で考え始めました。それまでは、セミナーで習ってはいても、実感としては何も感じていなかったんです。

– 木材価格が下がり続けているとき、山主さんたちはなにか対策をとっていたんですか。

國里:もちろんただ指をくわえて見ていたわけじゃなくて、いろいろと試行錯誤をしてきていました。たとえば、和風建築の天井の方に使われる部材があります。この木が、「見栄えがよく真っすぐで、長さが12mで無節」というものだったら、2本売ったら1ヶ月生活できる時代がありました。木材全体の値段が下がっている中でも重宝される、価値ある逸品をつくる努力をしている人は多かったと思います。だけど、住宅の様式ががらっと変わって、いい品でさえも引き合いがなくなってしまった。

– 國里さんが森林組合に入った頃には、すでに組み立て式の住宅が建ち並ぶ時代でしたか。

國里:ちょうど変革期の序盤戦くらいでしたが、10年もかからずに純和風で家を建てる人はいなくなってしまったし、不景気も手伝って家そのものが建たない時代になってしまいました。

– 山主さんの言葉をきっかけに意識が変わった國里さんが、次に考えたことはどんなことでしたか。

國里:山主さんにとって木の売値は安いけれど、都会に行けば「木は高い」といわれます。その都会に、日本の人口の90%は集中している。山のある田舎に住んでいるのは、せいぜい人口の10%なんです。10%の人間は「木は安い。いけんいけん」というけれど、90%の人間は国産の木は高いと思っている。このギャップがある限り、誰も林業の危機に見向きもしないだろうと考えるようになりました。

– なるほど。都会の人は高い値段で売られている国産材を見ているから、山主も高く売って潤っていると勘違いしている。

國里:そうですね。今でこそ林業は注目され始めているけれど、そもそも一般の人は森林組合が何をしているか知らない。だから僕は、森林組合の職員として、組合と都会の人をなんとかつながなくてはいけないと思いました。
 

木の値段を自分たちで決めるために、エンドユーザーとつながる

 
國里:都会の人との接点になり得たのが「木工」だったんです。今、木薫があるこの場所は、実は平成14年まで、西粟倉の森林組合が経営する木工所でした。細々とではあるけれど、唯一エンドユーザーとつながっている場所。だけど、一度も黒字を出したことがない部署で、平成13年についに閉鎖しそうになったときに、唯一反対したのが僕でした。つながれる唯一のチャンネルをみすみす手放すのか、と。すると「おまえが担当して黒字を出したら続けていい」といわれて、平成13年は僕が担当者になって、その年は黒字になったんです。

– 初めての黒字! なにを変えたんですか。

國里:それが継続性のあることをしたわけではなくて(笑)。僕も若かったので、倉庫に眠っていた木材を全部商品にして売ったんです。在庫が全部なくなったので、次の年には赤字に転落して、結局木工所は閉鎖されました。

– 森林組合の木工所では、どんなものをつくっていたんですか。

國里:ダイニングテーブル、食器棚、イスなど一般向けの家具です。僕が担当していたといっても、山に道をつける仕事のいわば「ついで」だった。でもお客さんにしたら、数十万円の家具を買うときの担当者が「ついでですねん」って失礼な話。だから、仕事をするときに、専任で向き合う必要性をすごく感じました。

– その時点から木薫設立までの4年くらいの間は、どんな期間でしたか。

國里:木材に付加価値をつけなければいけないという想いは強くなっていきました。平成12年から「丸棒加工事業」の担当にもなっていました。これは土木資材をつくる部署です。平成14年に木工所が閉鎖するときに、組合長にお願いして、土木資材専任にしてもらったのは転機になりました。どうしても兼務ということをやめて、ひとつのことに注力したかった。専任になってから、年間の売り上げ計画4,000万円を、1億円弱販売できました。

– 専任でやったからこその結果が出たんですね。

國里:はい。それと、丸棒加工は、自分たちで値段をつけられるのが、大きかった。市場は買う人が値段を設定します。テレビで見るお正月の築地市場の風景みたいに競り上がっていけばかっこいいけど、木材市場の現実の競りは、下がっていくものなんです。「1万円」と最初に声がかかったとして、まずはしーんとなって「5,000円なら買うたるわ」みたいな世界。だから、丸棒加工事業では、土木資材という枠組みの中ではありましたけれど、結構いろいろやりました。

– 売る方にとっては、自分が育てた木の値段が下がっていくって悲しいでしょうね。國里さんは、新しい部署でどんなことをやったんですか。

國里:基本的には土木資材を製造するんですが、公園の東屋をつくったりもしていました。値付けにしても、山に還元する部分をきちんといただくようにしました。そのために、木を切ってくれる林産部門と、とても密にやりとりしていました。林産部門にとっても、ただ切って木材市場に出すよりも、丸棒部門に出す方が内部留保できるし、利益がでればモチベーションが上がっていく。すると、「丸棒部門でほしいのはこういう木らしい」とか、縦割りの部門だったはずが、結構部署を超えた交流が生まれましたね。みんなが、売り手が値段をつけることを学んでいった。土建屋さんともつながりができて、僕自身がやっと「一般のお客さんともつながらなくてはいけない」と自信を持っていえるようになりました。
 


 

森林組合の合併で、独立し「木薫」を設立

國里:丸棒部門の結果も出てきたので、木薫でやっているような内容の企画書を書いて、組合長にプレゼンしました。組合長も賛成してくれた矢先に、森林組合の合併があったんです。ちょうど、行政の大合併のタイミングで、8つの組合が合併。新しくなった森林組合では、僕の企画は反故になってしまいました。自分はもうやる気になっていて、周りの人も巻き込みはじめていたので、引くにひけない。そのときに組合長と相談して、独立して事業をはじめることにしました。

– じゃあ、合併がなかったら独立せずに森林組合のなかで「木薫部門」が存在したかもしれないんですね。

國里:そうですね。西粟倉の森林組合は新しいことにチャレンジする気風がありましたねが、組織が大きくなってそうもいっていられなくなった。日本の森はもう育林の期間はとっくに終わっていて収穫期なんです。でも、育林の方が儲けがいいので、多くの森林組合が育林に終始していました。このままでは10年後はないのでは、と問うても明確なビジョンを持っている人は少なかったですね。

– きちんと売っていかなくてはいけない時代に入っていたということですよね。すると、自分で値段を決める、とかエンドユーザーとつながるという、國里さんがやってきたことがさらに意義深くなっていきます。

國里:自分で値段をつけて売る、ということをしたかったら、自分でやるしかなかない状態でした。

– 木薫というすてきな名前は、どうやって名付けたのですか。

國里:他の候補には、粟倉工芸株式会社とかもあったけど、イマイチでしょ(笑)。自分たちは「木の薫りを届けたい」から木薫。スタートアップメンバーの1人が出してくれた案でした。最初から、子どもたちに向けての事業にすると決めていたんです。林業はスパンが長いので、僕たちから誰かにパスしないといけなくて、受け取るのは子どもでしょう。でも、人口の9割は都会にいて、木に触れないどころか、土さえ踏まない生活をしている。その子らに対して「日本の山を育ててね」と直接伝えてもダメでしょう。子どもが成長したときに、木のロッカー使っていたな、とか木の机だったなとか思い出してくれて、ひょっとしたら何千人かにひとりでも、山に興味を持って勉強したりしたらすてきなことです。

– そういう想いがあって、保育園、幼稚園の遊具や家具といった絞り込んだものづくりを続けているんですね。

國里:そうですね。それを積み重ねてなんとか10年近くやってきたって感じです。創業メンバーは6人で、そのうち4人は一緒に森林組合を辞めた人たちでした。当然、子ども用の遊具や家具の専門性はありませんから、遊具の規格などひたすら勉強しました。土木資材を扱ってきたから、野外で木が腐らないノウハウなどはあったのですが。取引量としては、家具の方が多いんです。家具についても、うっすらご縁ができたところになんとかくらいついて、勉強させてもらった感じです。

– 保育園などの家具、遊具の規格の厳しさは聞いたことがあります。角があってはダメとか、安全性をすごく求めますものね。

國里:はい。勉強しながら地道に営業するしかありません。だけど、木工部門はぶっちぎりの赤字でした。その部分を補ってくれたのが、森林整備部門で、森林組合から引き継ぐかたちで作業させてもらうことが多かったです。それでも、はじめの5年くらいは全体でみても赤字でした。

– 木薫の整備部門の強みは何ですか。

國里:私たちが評価されたのは仕事が丁寧であるということです。林業専門の業者は、採算がとれないからと雑な仕事をしがち。だけど、木薫のメンバーである青木は、「後で見て、誰がこんなにしたんだといわれるような仕事はしない」と。丁寧にやったら遅いわけでもないんですよ。「木薫に頼めば丁寧にやってくれる」という評判が口コミで広がって、だんだん依頼が多くなりました。
 

次世代に引き継げる森づくりのための行動

– 作業の丁寧と雑の差は、どういうところに見えるんですか。

國里:例えば木が1,000本生えていました。いい木だけ300本間伐して、悪いのだけ残したらダメです。切る方は売り上げがよくなるけど、山主さんの育てる楽しみは奪われる。木薫では、次の世代の子ども達にパスするというのがポリシーなので、どういう山を残したいかを基準に考える。だからいい木をちゃんと残します。後は切った枝をまとめておくとか、基本的なことをちゃんとやるくらいです。

– 逆にいい木ばかり残したら、木薫の儲けがなくなってしまうのでは?

國里:自分たちで商品をつくって値段を決めることで解決しているんです。木薫の家具や遊具に、無節の高級な木が必要なわけではないんです。それが、山主から見れば「いい木も残してくれている」という結果になっている。あとは、なるべくお金を還元しています。間伐してあげるから10万円くださいというところもあるんですが、私たちは1万円でも2万円でも払うようにしています。木は、お願いして切らせてもらうものだったはずですからね。

– 木薫は、西粟倉の百年の森林構想の理念も体現しているようです。村全体の構想や西粟倉の森に対しての思い入れはありますか。

國里:村全体を僕が担うのは無理な話だけれど、自分が関われる人には、どういう森づくりをしていきたいのかぶらさずに伝えていきたいと思っています。村の思想の根幹の部分の理念には非常に共感しているから、間接的にでも協力していきたい。山主さんの中には、百年の森林構想に対して斜に構えている人もいるので、彼らには上手に想いを伝えるようにしています。実際の森林整備についても、西粟倉の山主さんたちが、「自分の山がきれいになった」と思えるような作業を続けていきたいです。

– 山に対しての姿勢も、子どもに向けての商品づくりも、「次の世代に向けて」というアプローチはぶれないですね。

國里:地球環境が厳しくなっていくばかりだし、環境教育が必須になっていくと思います。それをただの座学にしちゃうのか、木に触れてきた子ども時代を思い出すのかで全然違う。100人に1人でも山に関心を持ってくれて、さらにその1,000人に1人が、山に真剣に向き合う仕事にでもついてくれたら、僕としてはガッツポーズです。

株式会社 木の里工房
http://www.mokkun.co.jp