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「儲からないし課題もある。でも百森の仕事を続けて山を良くしたい」西粟倉初のベンチャー・木薫(私と百森vol.01)

自ら森で木を調達し、家具や遊具をつくっている「木薫」という会社がある。創業当時、西粟倉村内初といわれたベンチャー起業は、小さな規模ながら、林業の六次産業化にチャレンジし続け、少しずつ規模を拡大し、いまに至る。
ぐるぐるリパブリック編集長の牧大介曰く、「木薫のビジネスモデルを、村全体にスケールアウトさせたプロジェクトが百年の森林構想」なのだ。村全体の構想と一企業のあり方は、どのようにリンクするのだろうか。木薫代表取締役の國里哲也さんにお話をうかがった。

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スタートは「村には山しかないよね」

− 一度インタビューしたこともある國里さんですが、今回は、百年の森林構想(通称:百森)と木薫の関係についてお話をうかがいにきました。

國里:百森ができて8年ですよね。私たちの会社「木薫」は、2016年で創業10年になりました。100社起業しても、10年後に残るのは3社だけといわているので、うまいこと引いたな、良かったなぁ、と思っています。

– 100分の3と知ると、会社を維持するのがいかに大変なのか分かります。そして、木薫ができて2年後に百森が立ち上がった、ということですよね。

國里:そうですね。でも、百年の森林構想という言葉ができたのは、実は2004年ぐらいだと思います。

− それは、ずいぶん遡りました。2004年というのは、合併をしないと決めた年です。

國里:そうです。全然具体的なイメージもないままに、言葉だけはありました。「西粟倉村には何があるんだろう」、とみんなが考え出したんだけど、結論は「山しかないよね」という(笑)。最初は、山が村の産業の核になるとは思い至らなかったけれど、「とりあえず何とかしなきゃいけない」いう意見がみんなから出たんです。そして、100年先の森づくりができたらいいよね、と。

− その「みんな」っていうのは、國里さんも入っていた組織があったのですか。

國里:「地域再生マネージャー会議」っていう会議があったんですよ。メンバーは、役場職員や森林組合を中心とした12、3人でした。僕は、まだ独立前で、森林組合のスタッフとして会議に出ていました。いま考えれば、「合併しないことを決めてしまって、村の将来をどう考えていくんだ会議」でした(笑)。

− きっと、森林組合としては、若くて元気のある奴を送り込もうと、國里さんを選んだんでしょうね。

國里:本当いうと、第1回のキックオフ会議は当時の組合長が行かれたんですけど、話が難しくて分からんと(笑)。それで、僕が2回目の会議から参加したんです。

− そのときはもちろん、後に國里さんが起業するなんて誰も予想しなかったけれど、振り返ってみれば、國里さんを送り込んだのは、組合長の英断ですね。

國里:あの会議に参加してなかったら、間違いなく今の僕はないと思います。

− その会議は、いつ頃まで続きましたか。

國里:月一のペースで3年ぐらいです。後半は、あまり人数が集まらない会議になっていたんですけどね。初年度は「道の駅あわくらんど」などの観光事業に手を入れようという話が中心で。2年目から、山に注目した話し合いになりましたが、どうもだんだん熱意が薄れてきてしまって。ひどいときには参加者が3人だけ、なんて状態になってしまったんです。すると、百年の森林構想っていう言葉自体も、ちょっと忘れ去られてきて…

− あまり表には出て来なくなっていたんですね。

國里:実際2008年に本当に百年の森林構想ができあがったのは、具体的な案が出てきて、役場での話が一気に加速していったからだと認識しています。当時の道上村長や、現村長である当時の青木議長の、理解があったのが大きかったんでしょう。村は森を大切にしなきゃいけないと非常に強く思っていた。

 

「山の財産」へのアプローチは難しい

− そこで木薫が方法論の実践者として登場するのですね。

國里:うちは2006年に創業してから、百森の小さい版を実践している感じでやってきました。普通に間伐しても採算が取れないから、間伐材を木工品や木工家具の材料とする。木を切って家具にするまで一本化することで、山主さんにお金が返せるようにしています。

起業して初めて間伐をやらせてもらった方の森は、先にほかの素材業者さんに見積もりを出してもらったら、300立米か400立米の間伐に40〜50万円費用がかかると言われてしまったそうです。結局、木薫で作業を受けて、確か40万ぐらい山主さんへお支払いできました。それでも、ちゃんと採算は取れたんですよ。

市場の人には「木薫は一番いいとこ自分らが使って、そうじゃないのを市場に持って来るけ」みたいな感じで言われましたけど(笑)。それで僕はいいと思っています。自分たちなりのやり方を手探りしてきて、何となく手応えを掴んだ頃に、百森ができた感覚でした。

− 言葉だけでなく、かたちになった「百森」を知って、どのように感じましたか。

國里:ちょうどその頃、人手不足に悩んでいたので、素晴らしいな、と。社長業、山主さんとの交渉、木工の営業も当時僕だけでやっていて、とてもやりきれなかった。理念が共通しているのだから、交渉は役場に任せて、木薫は作業部隊として機能すればいいと思えました。

− なるほど。でも交渉をしてきたからこそ、その難しさも知っていて、任せる不安はありませんでしたか。

國里:それはありました。今は体制もだいぶ分厚くなっていますが、百森が始まった当時は、地権者交渉ができる人が役場には1人しかいなくて、別の仕事と兼務でした。担当者には苦労もあっただろうなと思います。お金の絡む話なので、みんなが「いいよ、いいよ」って言うわけもないし、特に年配の方にとって、山は財産だという想いが強い。その財産に手を入れられる不安ってすごく大きいんです。たとえお金の条件がすごく良くても、動かない方も当然いらっしゃいます。

一筋縄じゃいかない山への想いは、経験を積んだり、山に関わる諸先輩方の話を聞いたりして、ちょっとずつ蓄積されていくもの。一朝一夕にその感覚が身につくわけじゃあないですしね。僕は、自分が知っている人、お願いしやすい人を狙って地権者交渉に行きますし、小さな事業規模だったらそれで十分。でも、村が目指すのは1,300人総当たり戦になるわけだから大変です。

− 実際に役場が地権者交渉を担うようになって、木薫のいっぱいいっぱいだった仕事は楽になったんですか。

國里:それが、そう簡単にもいかない。最初の交渉自体が進まず、作業する場所がなかなか出てこない問題が発生したんです。森林組合にも作業班がいるので、作業する森を木薫の作業部隊と分けるんですけど、分けるほどもない。仕事が来ない。

山のスタッフを遊ばせるわけにもいかないので、最初の数年は歯がゆい思いもありました。結局、森林組合の下請けをしたり、自分が営業に出て村外の仕事を受けたりして、なんとか乗り切っている状態でした。

− 森での仕事を、工面していたわけですね。百森に関連する仕事でやっていけるようになってきたぞ、という潮目はいつ頃だったんですか。

國里:百森の事業が実際に仕事として出だしたのは、2011年頃だと思うんです。「森の学校」の工場が稼働し始めて、その頃からぼちぼち木が出てき始めました。それまでの3年ぐらいは産みの苦しみの3年間ですね。

石の上にも三年って、昔の人はよう言うたなと思います。一番遠いところだと、香川県の直島まで社員総出で行って、下草刈りをしてしのいでいましたから。ほとんど現地合宿みたいな感じで(笑)。うちの会社の山部門が安定したのも、たぶん2012年頃からだと思います。百森の事業が一個出てくるごとに、遠い場所の仕事をだんだん減らしていきました。

 

生まれ育った西粟倉村への特別な想い

− 村で一つ交渉がまとまって、「木薫さんお願いします」と頼まれる時ってどんな気持ちですか。特別な想いがあるのでしょうか。

國里:それはもう、絶対的にあります。村内の山だったら、人間GISといわれる福島さんに鍛えていただいたおかげで、村の山のデータの3分の1…いや、3分の1も無理かな、でもいくらかは頭に入っています。「どこそこが今度百森で出る」って言われたときに、自分でその山をイメージすることができるんです。土質はこんなだったな、木の伸びがいいはず…と自分でイメージしながら、森の作業の班長と話をして計画を練れるのは、自分の村の森だからです。

– だんだん木が出だしたという2011年以降は、ストレスなく仕事は流れているのでしょうか。

國里:もちろん、紆余曲折がありますよ。大元に山主がいて、役場、森林組合、作業する人、これだけ関係者がいるので、情報の伝達だけでも大仕事ですから。施業する側の目線で見ると、百森の仕事だけを受けて年間やり続けるのは、まだ無理な状況。発注のスケジュールが、まだ全然安定していなくて、たとえれば、コップが空になるときが1年間の間に何カ月かあり、瞬間的に溢れるときもあり…みたいな感じ。

だから、現在計画されているように、情報を集約できる機関が必要になってくるんでしょうね。春の段階で、たとえば「今年度は、施業できそうなとこが10カ所あるから、こういう役割分担でやってほしい」というスケジュールがあれば、こっちも年間計画を立てられる。百森の、今後の課題でしょうね。まだまだトライアンドエラー続きです。

− 地権者交渉が難航するほかに、作業のスケジュールが施業者向けではない理由が、あるのですか。

國里:森の作業は、県の補助金が絡んでくるので、どうしても柔軟に対応できない背景があります。山主さんに還元するためにも、補助金なしにはできない。でないと、役場のお財布からどんどん出るだけになりますから。だから、年度の初めは補助額が決定していなくて、雪が溶けてさあ動くぞってときに、仕事がないことが往々にして起こるんです。この問題はやはり、百森に特化した組織がないと解決しないでしょうね。

− 百森と、そうでない仕事との割合は、木薫ではどのくらいですか。

國里:6対4くらいで、4が百森といった感じでしょうか。本当は7対3の7の方を百森にするのが目標。普段は地元で仕事をして、雪が積もってどうしようもない冬の間だけ外で仕事をするのが理想ですね。

– 百森とそうでない仕事と、どちらが儲かるんでしょうか。

國里:正直にいえば、百森のほうが儲からないです。でもそこは、自分たちには、村の山を良くしたい、使命みたいな気持ちがあります。金銭的な問題も、ミスコミュニケーションの問題も、集約できる組織ができれば解決していくと期待しています。

− 難しい部分がありつつも、木薫にとっては、百年の森林構想の仕事の優先順位が高いのですね。

國里:それは、もちろん。たとえば、期間的に難しい発注がきても、「できません」とは言いたくないので、どうやったらできるか考える。自分たちが受けた仕事を、ほかの業者と手分けしてでも、やりきりたいと思っています。

 

間伐できる営業、家具をつくれる山チーム

– 仕事のスケジュールが立てにくい百森の仕事を、続けてこれたのはなぜでしょうか。

國里:うちの強みはたぶん、「3人と7人」だと思います。状況によっては、3人の林業班を、7人まで増やせる。営業のスケジュールを調整してもらって、営業担当に、がっつり山に入ってもらうこともあります。木薫では、年度末にかけて木工の仕事が忙しいので、雪が降って山の仕事が少なかったら、木工チームに、山のチームが加勢することもあります。そうすると、山で木を切る人間が、自分が切った木が最終製品になるまで見届けられます。

こういう体制になったのは、独立前、林業組合にいたときの原体験があるからです。ある木工品の展示会に、木を切っている班長が手伝いに来てくれたことがありました。すると、販売用に揃えていた切り株をさして、「これ、わしが切ったんじゃ。これ切るとき、ちょっとえらかったな」なんてタメ口でお客さんに言っている。内心、ひやひやしました(笑)。だけど、お客さんは大喜び。目の前に木を切った人がいて、苦労話を聞かせてくれる。みんな喜んでその切り株を買って帰るわけです。

うちの会社はここに学んでいます。木薫の営業スタッフがみんな山に行けるのは、研修としてかなり長い間山に取り組む期間があるからです。通常、入社していきなり営業には行かせません。山に放り込まれて、しっかりしんどい思いして、自分が体験した言葉を、のちにお客さんに伝える。だからこそお客さんに届く。激戦区である東京でもうちの営業が戦えるのは、おそらくそういう理由からじゃないでしょうか。

– 「自分が切った木でつくったんですよ」と商品を紹介できる。改めて、百森の縮図的な会社だといわれる理由に納得します。

國里:自分たちのやっていること、やろうとしていることが、村全体に広がっていることは、結構自信になっています。うちの製品を販売するときに、百森はすごく大きい。メディアに取り上げられて西粟倉村が有名になってきて、営業のときに話がしやすくなった背景もあります。

– 営業するときには、村が百年の森林を目標にしていて、木薫もその目標を共有していると言う話もしますか。

國里:もちろん話します。木薫のカタログの最初のページは山の写真なんです。手入れしていない山と、手入れが行き届いた光が差し込む山の写真を見せて、「西粟倉村は、村全体で百森っていうのを掲げて、いい森づくりをしています」、と。そうすると、自分たちが製品を使えば森がよくなる、森をよくした木で家具ができるんだと、すとんと理解していただける。何かいいことにつながっているんだ、という感覚を持ってもらえるみたいです。

– 山の現場を経験している人たちが、自分の言葉で語れるからこそ、説得力があるのだと思います。

國里:確かにそうですね。「ヒノキはなかなか倒れないんですよ」と言いながら、子供用の遊具の営業をしています(笑)。木を切るところからやっているんだ、という自負が大きいのかもしれません。

 

2058年の夢は、「見守り隊」のおじいちゃん

– 最後に、國里さんにとっての百森とはなんでしょうか。

國里:西粟倉がどうあり続けるのかと百森は、すごくリンクしていると思っています。「百年の森林とは」と聞かれたら、「西粟倉村の未来」と答えるかな。物理的にも、村の面積の95%が山ですしね。

いま、村に移住者がすごく増えて、百年の森がひとつのシンボルになっていると思うんですね。移住者が増えたおかげで、子供の人数も増えて、幼稚園や小学校の園児児童数も増えて、すごくいいことです。だから、百年の森というシンボルが枯れてしまうと、せっかく築きつつある村のかたちも、脆くも崩れ去っていって、ただの過疎の村に戻ってしまう。百森を続けることと、西粟倉が栄えていくことは、イコールじゃないかと思っています。

-「人を呼ぶ」ということとは直接関係ない山の事業が、人を引き寄せることにも…

國里:なっていると思います。だから自分も、生まれも育ちも西粟倉の一村民として、一事業を村の中でしている事業者として、当然尽力したいと思っています。

− 2008年に「あと50年は頑張ろうね」と宣言を出しました。2058年、國里さんは85歳ですが、どうしていると思いますか。

國里:僕はたぶん、しぶとく生きています。村の中に子供がたくさんいてほしいな。部活が選べるくらいの学校の規模だったらいいですね。50年後も常に人が循環しているのが理想です。きっとこれからもたくさん入ってくる人はいるだろうし、もし村を出て行く人がいても、何かを得て出ていけたらいい。そんな村だったら、放っておいても子供の人数は多くなるでしょう。

あとは、誰かが木薫をしっかり守ってくれたら嬉しいです。その頃僕は、たぶん何もかも引退して、小学生の登下校のときに「いってらっしゃい」、「おかえり」と道に立っている「見守り隊」をやっていると思いますよ(笑)。

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