岡山県
西粟倉
にしあわくら
役場は、村人を豊かにする「会社」。ビジネスマインドで過疎の村の未来を拓く。西粟倉村役場参事・ 上山 隆浩さん(私と百森vol.15)
Date : 2018.05.28
林業の川上から川下までをたどってきた、シリーズ「百森と私」も最終回。今回お話をうかがった西粟倉村役場の上山隆浩さんは、百年の森林構想が動き出したそのときに担当課の課長になり、以後10年間この事業の歩みをその責任者として見守ってきた。百森の進展を考えれば、「担当課長」というのはいかに重役だったろうかと思う。ただ、本人はいたって軽やかなのに驚いた。
「山の事業」としてスタートした百森は、さまざまな枠組みを超越して予想を超えた枝葉をつけていると上山さんは言う。そのことを物語るように、現在の上山さんの役職は「地方創生特任参事」である。夢は、「西粟倉村」が残っていくこと。そこへ向かう厳しい道を颯爽と進んでいく、上山さんの胸の内を語ってもらった。
諦めたはずのホテルマンが役場の仕事?
上山:僕は、生まれも育ちも西粟倉です。大学3年の時に西粟倉村の公務員試験があって、父親に頼まれて一歳年上の兄貴に付き添って受けて2人とも落ちたんです。その時の採用は、現在の山下副村長と関教育長の2人でした。
次の年に、僕は民間企業を受ける予定でしたが、同時に公務員試験の勉強もして、国家公務員2種試験も合格し内定もいただいていましたが、父親に「上山家の名誉のためにとりあえず今年の試験も受けて受かったらそれから断れ」と言われて、受けたら受かっちゃって。そうしたら、身内が寄ってたかって、最後はおばあさんに泣かれ(笑)、しょうがなく帰ってきて、それから30年以上西粟倉住まいです。
– 民間に行きたいのに、なぜ公務員試験の勉強をしていたのですか。
上山:公務員試験の勉強って意外とおもしろいんですよ。当時は暗号解読の問題もあったりしてね。僕は大学4年のときは西粟倉に帰っていて、あとは卒論を出すだけだったので、こっちでずっと勉強していました。本当はホテルマンになりたかったんですけどね…。
– ホテルマン、似合いそうです。それで、公務員になってまずついた仕事は何だったんですか。
上山:それが笑っちゃうんですけど、村の温泉宿泊施設、あわくら荘の勤務でした(笑)。役場にこんな仕事があるとは完全に誤算でした。土日休みじゃありませんしね。
入って2年目くらいに結婚式場をつくることになってその担当になりました。リサーチすると、村内と智頭町や旧大原町・東粟倉村地域(現美作市)で年間50組くらい結婚している。すると村長から「年に50組の結婚式を挙げるように」って目標を掲げられて(笑)。営業をかなりがんばって、ピーク時は50組近くやっていましたね。関西の方からも需要があって、関西に迎えに行って、披露宴済んだら送って行く、というようなこともしていました。
振り返ると、やっぱり出だしはあんまり公務員じゃない。途中で道の駅の担当になってまたあわくら荘に戻って…と35年くらいの公務員生活の中で、結局10数年くらい観光施設にいたことになります。
百森を担う産業課は苦情の集積地。感謝されずともやるべきこととは?
上山:このインタビューのテーマは、「私と百森」なんですよね。百年の森林構想をはじめに聞いた時は、森の村振興公社(あわくらグリーンリゾートの前身)にいながら「これはまずいんじゃない」と僕は思いました。個人の数十年ものの資産に手をつけるって大変です。
僕もそれ以前に、3年くらい村有林の担当者をしたことがあるんです。山のなかを歩き回っていたから、手入れがいかに難しいか知っているんです。だから、個人の山を請けて、20年、30年後に、「あの施業が悪かった」、「資産価値を下げた」ってことになりかねない。事業としてはリスクが高いです。
そんな風に思っていたら、担当である産業建設課(産業観光課の前身)の課長になることになってしまった(笑)。総論は美しくてメディアの受けはいいけれど、現場では「そんなことできるのか」と危ぐする声も大でした。役場の資金で木を出すために作業道を入れることは、所有者にとってはありがたい気がするんだけど、特に僕達より上の山を育ててきた世代の人たちとってはそんなにありがたいことばかりじゃないんです。「そんなんして大雨降ったらどうするんだ」「災害を誘発するんじゃないか」「山が減る」などの心配の声も数多くありました。そういった話がどんどん出てくる中で進めていくので、なかなか大変です。
– しかも、「森の学校」のような新しい企業が入ってきたり、移住者が増えたりすることに懐疑的な考えがあったこともあります。
上山:村民からすると「謎ベン」「謎のベンチャー」ですよね。
– そんな言葉があるのですか!?
上山:何しているかわからないけれどとりあえず食っているよね、というのを言うらしいです(笑)。西粟倉のベンチャー企業は本当は違いますよ。だけど、山を育ててきた人たちにとっては、「俺たちが育てて大きくなった木、これからやっと売ろうかっていう時、知らない若者たちが来て、素人が木の販売を行って大丈夫か?実になるところを取っていくんじゃないか?」っていうイメージがあったようです。そこを払拭するのに体力が必要でした。
– 村民からの心配や反対の声がありつつも、粛々とチャンレンジを続けてこられたのはどうしてですか。
上山:当時、西粟倉の一部の地域に豪雨があると、山から土石流が流れ出るという状況が起こっていました。間伐の遅れによる下層植生の不足が原因と思われますが、個人の力で山を整備することは難しくなっていました。平成24年度からは国の政策が変わり、大規模に集約化を行って、大規模な山林で合理的に間伐し、木材を搬出しないと補助金が出なくなって、より一層「百年の森林構想」を推進することが必要となりました。事業については、住民の方との約束もありますが、国も地方への若者の移住定住に対して支援をおこない始めたところで、森の学校のようなベンチャーと組んでやることに批判があがったこともあったけれど、国が直接的に補助金等を通じて、いろんな人が入ってくる仕組みを支援してくれました。
「森の学校」が西粟倉にできるときも、雇用対策協議会という人事部を村の外部に作って、そこに直接国から補助金を受けとり、都市部からの若者の移住を進めることができました。いろいろな議論があって、「影石小学校は謎ベンだ」みたいな話がありながらも、村の予算の審議に関係なく、国によって事業は進めることができました。
なるべく行政関与でない仕組み、民間が自由にできる仕組みを作って、国から「やれ」と言うような支援をいただいている事業にすると進みやすいことがわかりました。
– それは、ある意味で作戦ですね。
上山:そうですね。すべてが認知されていなくても推し進めなくてはいけないものもあります。やっていくしかない。
それをやったから担当者は苦労し続けているわけですよ。みんなが同意して始めようって4年5年かけて納得してやっているわけではないから、こちらの努力不足ですが、未だに十分に理解されていない部分はもちろんあります。
百森開始当初は予想しなかった広がりが生まれている
– 事業が始まって10年弱経ちましたが、その間はずっと産業観光課にいらっしゃるんですか。
上山:そうです。同じ課で10年って他の行政ではあまりないみたいですけどね。同じことに長期間携われるから、事業の継続性が保てるのでいいですが、抜けた時の穴が大きい面もあります。
うちの課の場合は、表に見える部分は骨になる百森、環境モデル都市、ローカルベンチャー…などの分野を担っています。だけど実は、「百年の森林構想」「環境モデル都市構想」「バイオマス産業都市構想」など多くの計画が2050年代に向けての計画として動いている。だから、役場内の体制が変わっても計画自体は変わらない。その計画に沿って、事業を粛々と重ねているのです。
百森のスタートだって、山がよくなって、皆さんから預かっている山の材が安定的に売れる仕組みであったら、それでOKだったはずなんです。それが、幹のところから枝葉が生えてローカルベンチャーだとか環境モデル都市だとか、思いもよらぬ発展をしていますよね。
それでも幹は百森。単純に山だけの話だと思っていたけど、全然そうではなかった。いろんな仕事を作ろうと思えばできるわけですよね。自分がするかせんかの話だけで、それがおもしろい。
– 百年の森林構想という幹が、今はそれなりに育ってきている。生えている主な枝をもう一度改めて教えてくれますか。
上山:環境モデル都市や水力発電も含めて、再生可能エネルギーの取り組み、ローカルベンチャーもそうだと思っています。さらにそこから派生していくICO(仮想通貨)だとか教育モデルもあります。
– 百森という幹があることで、新しいチャレンジという枝葉が芽吹いている。
上山:さらにその枝にいろんな人たちが鳥のように集まってきている。外部の人たちにとってもよい取り組みにすることで、花粉が付いて実がなるみたいなイメージができてきた。今までの村内のメンバーでがんばってきたチャレンジとは別に、外との関係性の中で協働するようにも変わってきて、より事業がやりやすくなっています。
– 具体性も持ちやすいですよね。
上山:持ちやすいし、たとえば僕らが2年かかってもできないノウハウを、その人が来たら1日で解決するという話でもあります。
課を超えたプロジェクトで、次世代の公務員が育つ
– 上山さんの役職は「地方創生特任参事」です。「参事」ってあまり聞きなれなかったのですが、どんな役職なのでしょうか。
上山:参事というのは、うちの村では行政職員でいうと一番上位です。その下に課長があって、課長補佐がある。もともと産業観光課にいる分には課長で問題ないですが、今、百森の次の旗を立てて「地域がどうなりたいか」を考える仕組みを課を超えて考える「地方創生推進班」というのをつくりました。その取りまとめをやっているので、課の壁を超える意味で参事になったわけです。
「地方創生推進班」で今年取り組んでいるテーマは、「地域のいろんな人の目線に立ったとき、私はここが大切で、私はそのためにこんな仕事をこうやりたい」という案を出してそれを実行することです。
12人の班員1人1人が自分のプロジェクトを持ちます。「私」が実現したいことを決めて、1人でできないならチームをつくるために動く。人任せや漠然とした主体になりがちなのを、「私がどうする」まで落とし込むような計画づくりをやっています。
「百年の森林構想」を変えるという話ではないんですよ。「百年の森林構想」は、山を起点にしてきたので、産業系の色が濃い政策と認識されています。40人ほどしかいない役場の中でも、百森事業は産業観光課の管轄と思われています。でも、枝葉は産業系の範疇に収まりません。その地域の人もしくは地域外に向けて、西粟倉が地域の自然資本の価値を引き出した上で、次の地域づくりのためにどういう旗を立てるかというのはこれから重要になっていくでしょう。
より広く、各課をあげて地域の住民の方にも共鳴出来るような旗を立てたいですね。で、1年経ってでてきたキャッチコピーが「生きるを楽しむ。」当たり前のことを言っているようで、噛めば噛むほど味がある言葉で、好きです。
「環境」における取り組みをこの10年「百年の森林構想」で力を入れてきた。その取り組みをSDGsの構造整理をすると、次に取り組むのは「社会」のテーマ。ここに力を入れるための次なるキャッチコピーが「生きるを楽しむ」なんです。そして最終的には「上質な田舎」に向かっていく。
– 10年経って、百森がきちんと幹になって枝葉ができてっていう状態ができたからこそ、そういう話になるわけですもんね。
上山:僕らは幸い、状況を直接知ることができるのでおもしろいですよね。住民の方にもできるだけ理解していただくようにしたいと思うのですが、まずは、行政の職員が知る、理解することが大切だと思っています。
特にこれから子育てや教育、福祉といった分野にまで事業が広がっていくと、行政がいかにベンチャーの方たちや地域の方たちと協働してやるかが大事だと思います。
この前も、ローカルベンチャースクールで、モンテッソーリ教育についてプレゼンしてくれた方がいました。その内容の価値判断はともかくとして、幼稚園の先生や教育委員会の人間がちゃんと理解する、聞くという機会は、仕組みとして作らないといけない。それは組織としての責任だと思います。
たとえばローカルベンチャースクールのプレゼンのときに、地方創生推進班の職員に対して「都合がついたら来てね」という話ではなくて、メンターとして伴奏しながら業務として、「ちゃんとその事業を聞く」ということです。
「生きるを楽しむ」先にある西粟倉村での暮らし
– 「生きるを楽しむ」ということをこれから掲げて次のステージに上がっていくという話ですが、「生きるを楽しむ」のさらにその先に、この村は…
上山:どうなるでしょう。目指すべき地域の姿である「上質な田舎」っていうイメージをどう具現化するかだと思います。そこにどうやってたどり着くか。具体的にいうと、ベンチャーの人たちを通じて、いろんなことを…自主的に生きることを楽しむ人たちが、公務員も含めて多くなればいいですね。それが答えになるのかどうかはわからないですね。
– 未来の話をした時に、2058年という言葉がすぐに出てくるのが、ずっと百年の森林構想をやっている方らしいです。実は、「私と百森」のインタビューの時は、「2058年はどうなっていると思いますか」を聞くことにしているんですが、先に言われちゃいましたね。
上山:その頃、少なくとも「西粟倉村」で残っていたい。せっかく合併せず残ったんだから。
– そう聞いて初めて気が付きましたが、冷静に考えたら簡単な話ではないですよね。そもそも美作市に合併せずに、いま西粟倉村があるのも、なかなかすごいことです。
上山:そう思います。ものには賞味期限みたいなものがあって、2058年に村が残るとすると、2058年まで均等に努力すればいいっていう単純な話じゃない。10年先は少し落ち着いてもいいのかしれないけれど、いまこの後の10年間だけは死にもの狂いでやらないとその先はないよって時期があると思います。
役場職員にも話すんですが、今後10年の間に地域の基盤や、ベンチャーの方たちが来てもちゃんと経済が回る仕組みをつくらないといけない。
間伐と一緒で、「ここまでにやらないとその先いくらやってもダメよ」というのがある。だから行政の人間は、いま平々凡々と仕事をしていてはダメですね。
たとえば地域資源を使ってできる水力発電やバイオマス燃料があります。いま外部に任せているものでも地域資源でまかなえるものについては、10年の間に村内でまわすようにならなくてはいけないと思っています。
自前で経済ができるものは10年間で全部やっておく勢いで畳み掛けないとだめですよね。少なくとも私が2年間にできることは限られますが少々無理でもやりたいと思っています。
本来地域の住民の方達にも「いいタイミングだね、じゃあやろうよ」って言ってもらってやるのが一番いいんですけど、村の経営責任という観点からは、地域資源を活用した事業や資金調達などスピードある判断が必要で、やった方がいいと分かっているものは、合意形成の途中であっても、いまやらないと間に合わないものもあります。それは百森の最初の看板のスタンスと一緒です。
– 「生きるを楽しむ」っていうことを大事に10年間進んで、経済的な基盤をしっかり育てて生き残っていける村にしないといけない。
上山:地域の「生きるを楽しむ」を実践するには、自前のお金で施策を展開することが必要になります。だからそこの基盤をきっちりつくり込んでいく必要があります。2058年に向けて、村として残っていくためには国からの資金を受けとれるチャンスは今。
たとえばうちの村は、KPIは別としてローカルベンチャー事業のため国からの助成資金を1億円近く使っています。よそだと1000万とか1500万とかそんな金額しか使ってないんですよ。理由は面倒くさい、使いにくいってことです。でも、せっかく今がチャンスで、やる気があるところにはお金をくれて、自分たちでその仕組みができるのにもったいない。限られた期間の中で、いかに資金を含めて有効にリソースを獲得してそれを次につなげるかというのは、僕ら役場職員の仕事です。
さらに、役場職員が「生きるを楽しむ」ようになっていけば、否定しない村になると思います。村民からの相談受けたときに、自分のリソースだとか経験を通じて、できる方法を一緒に考える相談窓口になる可能性が非常に高い。できない理由を探すんじゃなく、できることを探すのって行政らしくないでしょう(笑)。
そうなると明るい地域になりますよね。人口も結構いい線いくんじゃないかなぁ。このへんをきゃっきゃしながら子どもたちが歩いていて、いろいろなイベントがあって…。この地域に雑多感が生まれているイメージが理想ですね。