岡山県
西粟倉
にしあわくら
「時代の変化を受け入れる苦悩と、変わらぬ想い」山で働いて40年。元森林組合・福島さん(私と百森vol.03)
Date : 2017.03.03
人間GISの異名を持つ、福島晴夫さん。GISとは、地理的な位置を手がかりにデータを総合的に管理し、高度な分析や迅速な判断を可能にする技術で、現在の建設業や林業に不可欠なものとされる。長年村の山に分け入っていた福島さんの頭の中に整理された森のデータには、コンピューターも敵わない、という人もいる。
福島さんは、森林組合のメンバーとして、西粟倉の森の状況をつぶさに見てきた。現場の技術から政策のあり方まで、間近に見てきた人物はいま、百森(=百年の森林構想)に対してどういう想いを抱いているのだろう。村の林業の歴史を振り返りながら、お話を聞かせてくれた。
林業が儲かった時代があった
– 福島さんは2016年から、百年の森林構想の推進グループのメンバーとなったということは、まだここでは新米なのですね。ずっと山の現場を経験してきた人が加わって、だいぶ心強く感じていると推進グループの他の方からお聞きしています。
福島:そうそう、ちょうど還暦になって森林組合を退職したからね。
– 森林組合に就職したのはいつですか。
福島:19歳のときです。高校を卒業してすぐに就職したのは、住友ゴム工業という会社で、ゴルフボールの製造に携わっていました。1年ほど勤務して西粟倉に帰って来て、まず車の免許を取りました。早生まれで、卒業までに車の免許が取れなかったからね。それから2、3ヶ月地元で働いているうちに、森林組合を周りにすすめられて、面接に行ったんです。3人受験して、私がたまたま職場から近かったから採用されました(笑)。それが1976年の11月頃。当時は合併前で西粟倉村だけの森林組合だったし、組合長、事務員さん入れても5人くらいの規模でした。
– 今に比べればずいぶん小規模です。
福島:その頃は、森林組合だけでなく、役場も山の仕事を担っていましたから。私が森林組合に入ってまず経験したのが、主に森林の調査。当時、森林組合の作業班は、2〜3人の小規模な班が3つあった記憶があります。とにかく造林一辺倒の時代だったから、森の整備をしつつ苗木を育てている人もいました。
– 苗木を育て、作業班も少数だと仕事がおいつかない気がしますが…
福島:村役場の林業班と合わせれば、70人近くいたと思う。1,500ヘクタールくらいある村有林は、それぞれ家から近い場所の管理を任されていました。当時を振り返ると、草刈りは鎌でやるしかなくて、1日に1反刈るか刈らないか。そのあと、だんだん刈り払い機の時代になって、楽になったね。
– 大人数を雇えるほど、役場の林業は儲かっていたんですか。
福島:儲かっていたというより、どんどん手を入れて造林しなくちゃいけなかった。だから下刈り、間伐、除伐といった作業が主。今のように、どんどん木を伐って売る時代ではなかったです。
今の相場だとね、杉が1立米(4メートル50センチ四方)7,000円〜8,000円。それが、1980年頃は、杉でも3万5,000円はした。檜は今は1万2、3,000円という値段で売られているけれど、当時は5〜6万円した。自分ががんばれば、がんばっただけ、実入りがあるわけだからよかった。普通1万円くらいの日当が、がんばれば4万円になる、という世界だった。林業で、家が建ちましたからね。
– 役場もそれだけ雇って投資をして、将来回収できると思ってたわけですよね。
福島:そうですね。だけど「森は宝」という意識も大きかった。でなかったら、再造林なんて絶対していないと思う。林業がいい時代は、西粟倉は近隣の中でも勢いのある村として有名でした。国土調査もこのあたりではすごく早かったんじゃないですかね。今やろうとしたって、所有者がわからなくなってもうできないだろうなぁ。
– 役場の林業班は、その後どうなっていったんですか。
福島:1980年代半ばに森林組合に吸収合併されました。「組合で一括管理して、その代わり村の仕事も全部やってくれ」となったんです。合併した頃は、役場グループと森林組合のグループは仲が悪くてね。研修旅行に行っても、バスで必ず大げんか(笑)。帰る頃には仲直りして帰るんだけど、恒例行事みたいなものだった。「ここの山はわしがやりおったねん」「なんでお前が入ってくるんだ」とか、縄張り争いの意識がやっぱりあったんです。
一度は手放した森を、再びみんなの森にする
福島:そもそも、西粟倉の森はかつて村有林だった。入会(いりあい)地として牛のえさの牧草を取るために共有していた草山でした。それが、トラクターが普及して牛がいらなくなり、植林地に転換していくときに、ほしい人に払い下げをしたんですよ。その時にかなり細かく割っている。
日当たりなどの条件を考えて平等にしようと思ったら、縦に割ることになるんですよね。でも、山道は横に通すでしょう。ということは、重機が入れるように道をつくって林業をやろうとすれば、膨大な人と交渉しなくちゃいけない。そういう山を大量につくってしまったんです。本当はそのときに、山も田んぼのように区画整備を考えれば良かったのになぁと、今は思います。
– なるほど。じゃあ、今は一回分解してしまったものをまた集める、元に戻すことをやっているわけですね。
福島:今、役場で検討が進んでいるのが、森を信託財産にすること。土地の所有は一度預けるけれど、配当を受ける権利は持つような金融的な手法も検討されています。そういう手段を使わないと、もう交渉も進んでいかないので。
– 所有者が不明だったり、取りまとめるにも細切れすぎたり、西粟倉だけじゃなくて、日本中で起こっていることなんだろうと思うと、ぞっとします。
福島:そうそう。西粟倉は林業の村だったし、森林組合が管理してきた部分もあるからまだマシな地域だと思いますよ。
– 追い風だった西粟倉の林業が、儲からなくなっていったのはいつ頃ですか。
福島:うちの親父が亡くなった1997年頃からです。当時、高速道路建設のために用地の買収があったけれど、あの時に売った値段はまだよくて、それから下がり続けた。だからこそ、ちょっとでも価値のある製品にして売る試みを、森林組合でやり始めた。
– 2008年に百年の森林構想ができたときのことは、覚えていますか。
福島:行政としては、森林組合をあてにしていたと思う。でも、当時の組合にはそれだけの元気がなくて、結局は行政ががんばった。ちょうど森林組合には、ほかの仕事がたくさんあって忙しかったんです。
– 民主党になった直後で、資源は成熟してきたんだからどんどん木を伐ってだせという政策転換もあったと聞きます。
福島:補助金事業も様変わりしていったので、昔みたい伐って出せばいいという状況ではなくなっていた。そうすると集約化が条件になって、山に道をつけることが必要になりました。だけど、道を入れることは当面は投資で、いい状態の木があれば出す程度の考えだったんです。それが今は「道をつける」=「木を伐り出す」になってしまっているのは、辛いことです。
昔ながらのやり方と、最新の林業との間で
– 西粟倉の林業の栄枯盛衰を見てきた福島さんの目に、現在の西粟倉の状況はどのように映っているのでしょうか。
福島:世の中の流れも変わったけれど、林業の作業もすごく変わりました。ずいぶん機械化が進んだけれど、正直に言ったら、機械でどんどんやるのは好きじゃないんだよ。
私は古い人間ですから、30年前なら立派な木が5万円で売れていたイメージが焼きついている。当時は、市場に行って皮がめくれていたり、傷がついていたりしたら、少しのことでも値段が1万円落ちていた。だから、森の所有者も木材関係者も、みなさん一本一本の木を大事にしていた。
今はもう全然違うじゃないですか。時代の流れだから仕方ないと思いつつも、皮がめくれ放題なのを見るとね…。今は見た目じゃ値段は変わらないと言われるけれど、絶対に木材業者の気持ちは変わると思いますよ。「これだけ手をかけられた木なんだから、ちょっとがんばって値段をつけようかな」と。今、機械作業が主流なのはオーケーですけど、手作業の部分もちゃんと残していきたいです。
– 従来の林業というのは、思いを込めて手入れをしてきた山を扱うものだった。百森をすすめていくには、長い間ほったらかされた山でもなんでも、とにかくすべてに手を入れて、再生させようとしているんですね。
福島:今は村全体のことを考えて作業量に重きをおいていて、個別のいい山に丁寧に対応できていない問題があります。もし所有者の方が自分の山に行って「うちの山はどういう作業をされよるんかな」と見たときに、情けない気持ちにさせてしまうんじゃないかと思うんです。
所有者の方から預かった以上は、「なんじゃこりゃ」ということがないようにしないと。たった1人でもそう言う人がいたら、伝染病みたいに広がってしまう。たとえ一生懸命作業していたとしても、言われるようになってしまう。
– 作業をする人にとっても、「いい木」をいい状態で木材にできたら、モチベーションが上がる気がします。
福島:機械を使う/使わないに限らず、一本一本丁寧に扱ってほしいという願いがあります。そりゃあ便利な機械があるんですよ。でも私は、しつこいようですけど、質にこだわりたい。たとえば、本来間伐は冬の仕事だけど、夏でもおかまいなしにやるようになってしまった。夏の木は、成長期で皮がすぐにむけちゃうから適さないんです。皮がずるむけになるのは嫌だと相当私がやかましく言ってきて、夏の間伐はなくなってきました。
あとね、私は木にスプレーでマークつけるのも好きじゃないんですわ。傷が入った木をそのまま残しておくのもよくないと思っています。所有者の人が見たら、物悲しい気持ちになるんじゃないかと思うんです。
両手を挙げた賛成じゃないからできること
– 今まで大事にしてきたやり方が、通用しなくなったのか、諦めたのか。いずれにせよ、福島さんの信条とは相反するところがあるけれど、今は百森を推進するために役場で働いていらっしゃいます。
福島:その辺は上手いこと折り合いをつけています(笑)。数年前は、自分が思う林業と現場のギャップがストレスで、ゆで卵みたいなハゲができてな。今はすっかりきれいに治ったで。
所有者の人を説得するときはこう言うんです。「昔とは時代が変わって、山を管理していく方法が変わるのは仕方ないんですよ。でも、道ができたら自分の山の様子がどうなったか、車で見に行けますよ。自分で行けないんなら連れて行ってあげますよ」と。それが私の想いです。
交渉と言っても、昔からよく知っている人を相手にすることも多い。「おまえも還暦になったか」なんて言われて世間話から入れるから、案外役に立っていますよ。
– なるほど。年配の人は福島さんと話してちょっと心が解れることもあるんでしょうね。しかも福島さんは、納得がいかない人の気持ちも分かる。
福島:そうそう。自分で手入れしていた人はとくにね。こちらとしても、今よりもっと丁寧にやる方法をとれれば、納得する山主さんも増えると思います。機械だからって、誰でも簡単に扱えるものではないんですわ。経験を積んできた人の技が本当は必要。
問題の根底には、山の木が「商品」でなくなってしまっている状況があると思います。山で作業する売り手も、市場の買い手も両方にとってです。状態のよくない材木を市場に運んでも、足元を見られるだけ。
今、市場でなにが起こっているか知っていますか? 競り上げではなしに、競り落とし。競り子が3万円から始めようと言ったら、「4万円」「5万円」と上がっていくのを想像するでしょう。だけど実際は、4万円が3万円になり、終いには1万5,000円まで下がったりしますからね。ひどいもんです。
– 今現場にいる機械世代の若い人たちに嫌われてでも「一本一本木を大事にしなさい」と言い続けるのが福島さんの仕事なのかもしれないですね。
福島:そうですね。意地悪じいさんになってしまうけど、まあ、しょうがないな(笑)。
– 最後の質問です。百森に、今後どうあってほしいですか。
福島:若い人は自分の家の山も境界も分からない人がほとんど。それじゃあ困るから、そういう人にはぜひ村に管理を任せてほしいですね。そのかわり、自分の家の山はどこなのか分かるようにしてあげるし、案内もしてあげますよというサービスがあってもいいんじゃないでしょうか。
我々役場の人間は、ただ「村に預けてください」じゃなしに、「この地域を、こういう風にしますよ」という絵や図面を持って説明した方が納得しやすいだろうなと思う。まあ手間がいるんじゃけど…。
いろんな困難があるけれど、百森は、誰かがやらにゃいけないことだった。私にとっての百森の意義は、急な作業道じゃなくて、普通の人たちが使える道をつくること。これから歳をとる山主さん、その子供や孫…誰もが直に自分たちの山を見に行けるようになる。その可能性を広げるために、私の今の仕事があると思っています。