岡山県
西粟倉村
にしあわくらそん
世界に通用する苺を西粟倉から。株式会社ミュウ「苺のプロフェッショナルを目指す人を募集」(苺生産、苺に特化した製菓企画製造)
Date : 2017.12.15
西粟倉村に今年生まれた苺専門の製菓工房。この工房を始めたのは、株式会社ミュウの代表取締役、渡部美佳(わたべ みか)さん。人生を変えるほど美味しい苺に出会った渡部さんは、製菓の経験がないまま苺専門のケーキ・お菓子屋を立ち上げ、銀座にも出店。今、京都にある店舗「メゾン・ド・フルージュ」は毎朝開店前には行列ができるほどの人気店となっています。
渡部さんは1つの苺、それを作る農家さんたちに地道に向き合いながらも「世界に通用する苺を!」と大胆に語られますが、不思議とそれは叶いそうに聞こえてきます。
これまでと現在、そしてこれから描かれている渡部さんの苺道、そしてその道を歩む為に新たに必要とする仲間について伺いました。
やってみたい!の気持ちで拓いていったキャリア
– 今年5月に村に工房を立ち上げてからUターンで帰ってきて社員となった小林さんとパートさん3名で既に4名の方が働かれていますが、また新たに人を採用されようとする躍進力に驚きます。どんな求人であるかを伺う前に、まず、そのエネルギーの源を探りたくなっています。まずは渡部さんのこれまでについて伺ってもいいでしょうか?
渡部:生まれは山口県で、関西の大学に入りました。大学2回生の頃に初めて「仕事」を意識し始めたと覚えています。安直ですが、家族で海外旅行に行くことが何度かあって、海外が面白いなぁというところから、海外に仕事で行けるキャビンアテンダントになりたい!と思い、大学に行きながら航空業界の専門学校に行ってました。ただ、就活の時期、キャビンアテンダントの正規雇用がぱたっとないタイミングに被ってしまい、諦めてしまいました。
そして新卒では全く違う会社に就職。でもその後転職し、神戸のアパレルの会社に入ります。その神戸の会社では、デザインの仕事に出会って、魅力を感じました。ただデザインソフトを扱うスキルもないので、印刷会社に転職しそこでデザインの勉強をして、また最初とは違うアパレル会社に転職し、企画デザイン室の配属となりました。当時は「企画する」ということ自体が本当に面白かったですね。子供服からテーマパークの商品デザイン、アーティストのイベントノベルティ、多種多様な業界にデザイン企画で携わり、デザインした数は数えられないほどです。
ただ、そのデザインを続ける中で少し違和感が生まれてきていました。最終出来上がったものをメーカーさんからいただいても、これが売れてこれは売れてないというのもわからないまま、また次の企画、、と追われるように働いていました。色んなジャンルの色んな仕事をしておもしろかったんやけど、次の仕事を考えるようになりました。そしてその頃、人生を変えてしまう苺に出会うんです。
– その苺に出会った時について詳しく伺ってもいいですか?
渡部:たまたま、ウェディングドレスのデザインをしていた友人が、「すごく美味しい苺に出会ったからお店作って、売ることにしてん」って連絡があって、気になってオープン前のお店を訪ねました。
開店前の店で、荷物に囲まれながら友人にもらった一つの苺。食べてみると今まで食べた苺は何やったんかと思うくらい美味しくて!すごく味が濃くて「この苺なら、店立ち上げるのも、そらそうやわ」と納得してしまいました。そして、私もこの農家さんの苺を広めるためのお店ならやりたいと思って、そのまま2人で立ち上げることになりました。
– すごい展開ですね!デザイナーさんからいきなり苺のお菓子、ケーキ屋さんになったんですね。
渡部:そうなんです。そして2003年に5坪のお店を京都の千本通で始めました。ただ、私達二人共お菓子を勉強したことがなかったんですよね。なのでケーキの切り方もわからないところからスタートでした。お菓子を作る機器もリサイクルショップで買った5,000円のオーブンとか、全て中古で揃えてました。そんな2人でジャム、ショートケーキ、クッキー、とシンプルで苺が生きるものを作ろうと試行錯誤しました。
シンプルなものしか当時の私たちには作れないんですけどね、なんにもやってないから。笑
でも、ちょっとこのままやとやばいよねと、2人それぞれお菓子教室に通い、製菓の技術は後から身に付けていきました。
「利益を上げる」ということに関しては、しばらく難しかったです。よく新しい店舗が出来たら情報誌に載るもんですけど、うちは3年間何にも載らなかったんです。「私らやってんのはお店じゃないんかなぁ」とか「自己満足なんかなぁ」とか思ったりもしましたし、売上がゼロ円の日もありました。2人でどんよりしたりもしたけど、1人じゃないので「明日も頑張ろう」とそんなんでやっていましたね。
ようやく4年目に雑誌に載ったり、そこから百貨店のバイヤーさんから声がかかって、催事に出たりするようになっていきました。
今では百貨店さんとの取引も増えてきましたが、最初はわからないことばかりで大変でした。
宅急便では生菓子を運べないし、結局どうしたらいいのかわからないから車で運搬していたり。製造販売の体制も彼女が製造、私は百貨店へ運んで並べて売って、帰ってきたら製造に合流するようなことをしていたので、本当に死にそうでした。立ち上げてから4年くらいはそんな感じで必死でしたね。
– なるほど、立ち上げてからの4年間の奮闘ぶりが伝わります。わからない、やったことがないことばかりで大変なことが多くある中でも続けて行けてたのは、なぜだったんでしょうか?
渡部:ただただ美味しい苺を知ってほしい、食べてほしいという気持ちがあったからやと思います。それが2人ともにあって、それでわーわーやっていたと思います。
その後は百貨店の地方催事に出るようになっていましたし店舗のほうも売上が徐々に伸びていきました。そして銀座店を出すという話が出始めます。
– 銀座店。すごく大きな飛躍だと思いますが、その一番の動機はなんだったんですか?
渡部:京都の店舗は、わざわざ行かないと行けない場所でした。なので移転や2店舗目を考え始めていたんです。そこでどうせやるなら、日本で一番便利な場所に店舗をつくりたいと、それなら東京銀座じゃないかとなりました。
あと「町のケーキ屋さんに留まらず、ブランドが新しくジュエリーや洋服を発表する時、それをイメージしたお菓子とか作りたい」なんてことも2人でよく話していたので、銀座ならできるかも!と盛り上がりながら、2011年に銀座店をオープンさせます。
ただ、銀座はほんとに地価が高くて、工房のスペースまで確保は出来ず、小さな店舗のみを構えることになりました。
最終的には、銀座は2年で撤退することになります。地価が高いことや運搬技術がないも大きかったですが、一番は自分たちの届けたいものが届けられないと感じたからです。
「あの人の、あの苺」だから出来ること
– 銀座を離れて、京都に戻られてからはいかがでしたか?
渡部:2013年に京都に戻るタイミングで、彼女が抜けてしまうことになります。理由としては、彼女が結婚を機に引っ越す新居が遠く通勤が難しいことと、ご家族の事情でした。
2004年からレシピ開発は私が担当していましたが、商品を企画する時、彼女が食べたいもの、好きなものをずっと考えて作っていました。苺が大好きな1人、消費者の1人として返ってくるフィードバックによって、完成度をあげていました。なので、彼女が抜けることはすごく怖かったです。
でも仕方ないことなので、切り替えていこうと。気持ちだけでなく、組織、店舗も大きく切り替えることにしました。これを期に法人化して株式会社ミュウを2013年に立ち上げ、2014年には店舗を今の三条通りに移転させます。
– 株式会社ミュウとして走り出してからはどうでしたか?
渡部:店舗が大きくなり加工調理の選択肢が増えたことと、複数の農家さんの苺を扱うことになったことで商品開発の幅が広がりました。中でも複数の農家さんの苺を扱うことになったのは大きかったですね。商品開発の視点が、色んな苺があって、色んな生産者さんがいて、その違いを表現できるお菓子作りしたいと変わっていきました。
多くの苺と生産者に出会って、気づいたのは、品種ではなく農家さんによって味が違うということ。「あの農家さんの苺」がもっと伝えられたられるように、お菓子を作り分け、工夫を重ねたいと思っています。今では取引させてもらう農家さんは50軒ほどにのぼります。
– 農家さんへの想いの強さも感じます。もう少しそのあたり伺ってもいいですか?
渡部:私の取引させてもらっている農家さんは本当に拘りを持って研究熱心で、どんどんと進化されていきます。ですので、これからは農家さんから買ってほしいと言われるのではなく、こちらからこの値段で買いたい、と言えるような仕組みと関係を築きたいです。
特に夏苺ですが、大手の会社さんは丸くて赤ければ全部買い取るということをされるので、農家さんはとにかく沢山作れば売れる仕組みになってしまっています。
これを真面目に作った美味しい苺がちゃんと消費者に届くようにしていきたいです。
美味しい農作物を作れば、農家さんにちゃんと評価や売上で返ってくる、そうした仕組みが農業全体に広がることを望んでいます。それを私は、苺の業界だけでも取り組んで、変えていきたいと思っています。
美味しい苺を作れば、ちゃんと儲かる、また美味しい苺を目指すことができるようになる。そうして日本全体の苺のレベルを上げていきたいです。
大きな夢としては、日本がブランド苺王国になることです。日本の苺は世界を相手にできると思っています。
西粟倉から世界へ発信したい苺
– 村に工房を構えられていることからも、その夢の一端を西粟倉が担っていければと思うとワクワクします。そもそも、西粟倉との出会いはどのようなきっかけだったのでしょうか?
渡部:2016年夏にエーゼロ株式会社の牧さんが京都のイベントで登壇されていたのがきっかけで西粟倉を知りました。その頃は需要に対して生産量が追いついていなかったので、製造拠点を新たに構えたいと考えていました。西粟倉ならそれが出来るかもしれないと思い、ちょうど募集期間中だった西粟倉ローカルベンチャースクール2016にエントリーしました。
村の方や、メンターの方と事業ブラッシュアップも受けながら西粟倉ローカルベンチャースクールを通過し、そのことをきっかけに今は西粟倉村内の旬の里という施設で5月から工房を構えさせてもらっています。
今では4名の新たな現地スタッフに入ってもらい、月2,000~3000個の商品を製作し、京都店はじめ全国の百貨店に配送しています。
ここに至るまでものすごいスピードで進んでますが、村の方々がものすごく協力的で有り難いと思っています。
– 求人されるということは、新たにこれから西粟倉で仕掛けていかれると思うのですが、その内容を伺わせてください。
渡部:西粟倉で苺生産をしたいと思っています。
今、企業と一緒にある夏苺の加工実験をしていますが、その品種に惚れ込んでいて、これを西粟倉で育てたいと思っています。西粟倉は寒冷地で、夏も涼しい場所と聞き「ここなら苺生産が出来るんちゃうか」とピンときました。
ただ、苺生産は片手間では出来ません。私がやりたい気持ちもあるのですが、今ある業務も疎かには出来ないので、ここに集中してくれる人を新たに募りたいと思っています。
あと、製造企画担当も募りたいと思っています。
西粟倉の工房でも人が不足しており、メゾン・ド・フルージュの新たな苺のお菓子開発、製造を今居るスタッフとともに一緒にやってくれるメンバーが必要です。
今、全国の苺の加工実験をしていて、その農家さんの、その苺に合うお菓子を一緒に考えたいです。
新たに参画してもらう方は、どんな業務に携わっていても、世の中にないものを自分で生み出したいという気持ちを持って、取り組んでほしいと思っています。
また、「苺」というテーマであれば生産や製造企画だけにとどまらない挑戦は会社として背中を押していきたいです。
一人ひとりの持ち味を活かす、苺の仕事を作っていければと思っています。
是非、西粟倉から世界に通用する苺とそれに合うお菓子を一緒に発信していければと思います。
– 渡部さんが駆け抜けてきたこれまでは、まさに山あり谷ありだと思いますが、渡部さんが話すと苦しい雰囲気はなく「苺が好き」という原動力で現状を楽しみ、また常に次の展開を楽しまれているようでした。
「西粟倉から世界に通用する苺」と大胆に聞こえる夢も、気がついたら叶ってしまっているのではないかと感じます。
あなたも渡部さんたちと一緒に、苺に熱中した仕事を一緒にやってみませんか?