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「木よりも断然、人が好き」な製造部エースが材木の夢物語を現実に変えていく

『西粟倉森の学校』(以下、森の学校)が木工加工の製造部門を立ち上げた2010年から製材所で働く西岡太史さんは、母親が育った西粟倉に家族を連れて移住。製材所のインフラ整備を中心に、廃屋の工場を村随一の木材加工施設へと導いてきました。商品開発に戸惑った創業期、業績悪化でリストラ風が吹き荒れた創業3年目と、常に会社の状況を受け止め、森の学校の未来を信じて壁を突破してきた製造部の若きエースはこう言い切ります。「木よりも断然、人が好き」。家族のために、スタッフのために、ひたむきに働き、生きる西岡さんの思いを聞きました。

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現場大好き人間のホンネ「木に思い入れはなかった」

– 20数名のスタッフが働く森の学校・製造部で、35歳にして原木調達や機械などのインフラ整備、生産に関わる資材の調達、加工や塗装の外注管理など、製造部門の重要な任務を背負う西岡さん。森の学校に転職する以前は、イベントの会場設営や舞台装置を組む仕事で汗を流していた現場大好き人間。デスクワークが中心となり、現場作業からは遠のいた森の学校でも、「心はいつも現場にある」と言います。
 

「現場(製材工場)に出るときは、ちょっとのことでもメンバーに声を掛け、やりとりします。わざと遠くから大声で名前を読ぶんですよ。そうすると、周りがコミュニケーションをとっているな、と思うでしょ?そうやって日々やり取りをして、心をつなげておかないと現場の信用は生まれません。いざとなったら一緒になんでもやるよ、みたいな雰囲気を持っておくことが大切。その積み重ねがチームワークを育てるんです。

この前もね、僕がいる製材所2Fの事務所にクーラーをつけようって話が出たのですが、「事務所は後回しで、先に現場の休憩所からつける!」って言い張りました(笑)。現場ががんばってくれているのを知っていますから、現場のみんなの環境を整えるほうが優先だという気持ちがあります。本当はもっと現場に出たいんで、いつでも動けるように日頃から意識して体を動かしています。体型は20歳の頃から変わりません。」

– 木材加工の最前線に再就職し、木への思い入れが相当あるのかと思いきやその答えは意外にも…。

「元々、特別木に思い入れがあったわけではありません。汗をかいて仕事することが働くことと思っていたので、汗をかいて仕事できるんだったら、別に何をやってもよかった。たとえばこれが、アルミでも鉄でも、一生懸命やっていたと思いますよ。」

– 大阪で結婚し、妻と子どもと3人で暮らしていた西岡さん。子育てをするなら西岡さんの母親が生まれ育った西粟倉で…、と思いを募らせたのは妻の真生子さんでした。西粟倉のことをウェブでこまめにチェックしていた真生子さんから、西粟倉の新しい会社が人材を募集していると聞いたことが、西岡さんの運命を大きく変えます。

 

「大阪の学校へ通い、そのまま大阪で就職しました。その頃から、僕は長男なのでいつか西粟倉に帰ろうと漠然と思っていました。でも、田舎は仕事もないし、難しいかなとも思っていたんです。それでも、嫁さんと結婚するときに「いつか西粟倉で暮らしたい」と話していました。2010年に西粟倉で森の学校が木材の製造工場を立ち上げるので人材を募集していると聞き、「失敗するなら今のうち」とチャレンジを決めました。29歳のときでした。

西粟倉で面接を受けた帰りの運転中に当時、森の学校の社長だった牧大介さん(現エーゼロ代表取締役社長)から電話があって、「来てください」と採用が決まりました。あまりの採用決定の速さに「まじか、あやしい人だな」と正直思いましたね(笑)。でも、決まったら行くつもりだったので、ギリギリまで大阪で働いて、約2カ月後に森の学校で働きはじめました。」

 

「だまされた」からのブレイクスルー。芽生える森林への思い

– 新境地で西岡さんを待ち受けていたのは、機械もない、作るものもない、木材加工のプロもいない、まっさらな状態のローカルベンチャーに入社という現実。不安が渦巻く中で、どうにかスタートラインに立つために、木材加工で先端を行く「全国詣で」が始まります。
 

「就職した次の日から、やることがないわけですよ。森の学校が当初、開発の柱にと考えていたのが間伐材を使ったワリバシとオフィス内装でした。僕も含め、みな素人だったので、どんな機械が必要で、どんな木材が適しているのかさえ、誰も何も分からない状況でした。本当に「だまされた!」と思いました。

丸太を加工する製材機を買うのが最初の大仕事でしたが、どんな漢字なのかもわからず『せいざいき』って平仮名で検索したぐらい(笑)。北海道、長野、岐阜、富山などに視察に行って、製材の熟練度が必要なくても材木が作れる機械や、木材の向き不向きなどの目利きをとにかく「教えてください」って何度も頼みました。「ワリバシを作りたい」と言っても、「馬鹿なことするな」、「そんなもん売れねえぞ」って散々言われましたね。でも、そう言うってことは、誰もやってないんだろうな、という確信も持ったんです。」

– 誰もやったことがない。それが、「どうせやるなら成果を出したい」という西岡さんの心に火が付きます。歯車の噛み合わない、生まれたての企業が少しずつ前進し始めたのは紛れもなく、現場で奮闘する一人ひとりの本気だったのです。

「「ワリバシ時代」は、機械の開発が思うようにいかず、本当に大変でした。でも、創業期から働いているので1年もいたらその状況も自分のせいと思えてきました。それにせっかく移住して、働き始めた会社を半年でやめるなんて、ついてきてくれた家族に絶対に言えません。このままダメになったとしても最後の1人になる覚悟で仕事に取り組まないと、家族に申し訳がたたないと、踏ん張りました。」

– さらに、並行して開発を進めていた『ユカハリ・タイル』も形になりかけていたころ、森の学校の経営状況が悪化します。創業から3年目の2013 年のこと。次々に社員が辞める非常事態の中で、西岡さんはぎりぎり踏みとどまります。その理由は、どん底でもぬぐい去れない、この会社への期待感でした。

「経営悪化の中で次々と人が離れていくのはなんともいえない感じでした。正直、僕もやめることを考えました。でも、自分ができることが残されていると感じていましたし、会社はボロボロでしたが、不思議とありえないぐらいジャンプアップできる可能性も感じていたんです。林業関係の地方創生では、牧さんは国内の先頭をいっていたし、メディアの注目度も高かった。歴史を重ねた会社とは違う、とんでもない” 跳躍力“があるんじゃないかと。それに、もし自分が辞めた後に、ギューンと会社が成長したら悔しいじゃないですか?」

– 社員の半数が去り、創業3年目ですでに”古株“だった西岡さん。「ユカハリ・タイル」が少しずつ世間に認知され、売り上げを伸ばしていく中で、西岡さんは原木調達を一手に任されるように。会社の生き残りをかけて走り続けた必死な状況から一歩抜け出たとき、西粟倉村の『百年の森林構想』へ、特別な思いが芽生えます。

「西粟倉の間伐材を使って付加価値の高い商品を売り、林業を救う。牧さんが描く理想に、「そんなにうまくいくのかよ」って最初は半信半疑でした。ところが、原木調達を任せてもらい、西粟倉の原木を買って、自社で商品化し、それ以外は他に売る。それでも使えないものは、燃料になるバイオマスに利用して村内で循環させていくという方向性が見えてきました。

森の学校ができる以前は、山から木を切り出して、その先はどこに行っているかもわかりませんでした。どうせなら、西粟倉で付加価値を付けた商品を作って、世に送り出したい。そのためにはどんな商品がいいのかと本気で考えるようになりました。そこで、牧さんがやりたかったことはこういうことだったのかって気付きました。」

– 就職の動機は「移住先の収入確保」だった西岡さんですが、西粟倉村の未来を背負って立つ森の学校で働いていくうちに、自身の働きに使命が帯びていることを感じ、良い意味でイノベーションに巻き込まれていきます。森の学校は、ピンチを経て、創業者の思いが従業員の意思に移行するフェーズを迎えます。
 

 

それでもやっぱり、木より人が好き

– 西粟倉の製材所で働く意味を見出した頃、西岡さんは結婚した頃から念願だった戸建の家を村内に購入しました。関西に住む西岡さんの両親のために、自宅隣に家を建て、2016年春、両親を呼び寄せました。

「ぼくが小さいころから、年に1、2回、母親が生まれ故郷の西粟倉村へ墓参りに行っていた姿を見て、母親の西粟倉村への思いを感じていました。元々、父親も東粟倉村(現・岡山県美作市東粟倉)生まれなので、街中で余生を過ごすよりは、畑とかがやりたい性分なんじゃないかと感じていました。母親が病気をして、「長くないのかも」って言われたのが大きなきっかけになり、両親の家を建てました。父親も母親も、すごく喜んでくれましたよ。」

– 大阪と西粟倉。生活の違いで感じるのは特に子育ての面だと西岡さんは言います。小学生と幼稚園、2児の父の目に写るのは、豊かな自然が身近にあることで、伸び伸びと育つ子どもたちの姿です。
 

「大阪では子どもを保育園に預けていました。散歩といえば、大きなカートに子どもたちを入れて、トラックがビュンビュン行き交う道路沿いを進むんです。あの光景がなんともいえなかった。西粟倉に来たらそんな光景はもちろんありません。子どもが裸足で外に出ても、水たまりでバシャバシャやっても気になりません。むしろ、裸足で遊びに行っておいでって勧めます。この前の日曜日も、草刈りをしている間、子どもたちにグミの実をとってもらいました。そういう時間の使い方が、とても好きです。」

ぼく自身、ここでももちろん、腹の立つことも、イライラすることもあります。でも、都会と違うのは、そこが山の中っていうこと。豊かな自然に救われています。

– 移住してきて田舎に馴染むことは簡単ではありません。余所者目線を意識しつつも、西岡さんは1年前、幼稚園のPTA副会長を経験。与えられる役を引き受けながら、いつか余所者でなくなる日を待ち続けています。

「幼稚園のPTA会長から副会長をやってくれと頼まれたので、ぼくで務まるならと二つ返事で引き受けました。そういう役回りができるようになったってことは、少しここになじんできたのかな?20年ぐらい西粟倉にいて、やっと余所者でなくなる感じゃないですか?時間はかかりますよ。」

– 自分のやりたいことを追い求める時代で、親のために移住を決め、決して興味のあることではない木材加工の仕事を選択。家族のため、誰かのためを優先し、力を尽くす。けれど、それが自分らしさだと西岡さんは話します。

「僕、人が好きなんです。正直言って、木よりも断然(笑)。誰かのことを思いやるっていいですよね。仕事でも、お互いのことをちょっとでも考えているのがやり取りで感じられるのが、すごく好き。それが仮にハズレていたとしても大好き。たとえば、外回りに出ていた僕が戻ってくるころだから、邪魔になるこのリフトをよけておこうとか、そんな心遣いが現場で感じられると嬉しいです。そういうメンバーが増えると、苦しいときに踏ん張れると思うんです。ぼくは心が弱いから、一人では頑張り続けられない。もっとそういう雰囲気をつくりたいですね。」
 

 

組織がレベルアップするためにその場しのぎはしない

– 現在、製造所所長を務める門倉忍さんが、自分の後任にと期待を寄せるのが他でもない西岡さん。「社内外の調整をする仕事に必要な、バランス感覚を持っている人」と、門倉さんは評します。そうしたバランス感覚と、築いた信頼関係で、西岡さんは社内外の人脈を広げています。

「いつでも、後任を引き受ける覚悟はできています。そのためにはまず、社内の信頼を得ないといけませんね。嘘をつかない、ひとに迷惑をかけない、言われて嫌なことは言わない、終わったら片付けをする…。これって、子どもが幼稚園から持って帰るプリントに書いてあることなんです。周りを見渡すと、当たり前のことができる大人って、信頼されて、仕事ができている人と重なります。その心掛けを日々、繰り返すことが信頼につながっていくのだと思います。

注文によっては手に入らない材料や、特殊なものを要求されることもあります。指パチンと鳴らしたら、魔法みたいに材料が出てこないかなって(笑)。そんなときは、「困っているから探すのを手伝って」と周囲に頼みます。手を差し伸べてくれる人を外部にたくさん作っておく。そのためには、普段からの信頼関係が大切です。」
 

– スタッフを指導するとき、西岡さんが意識していること。それは、作業のベースになる考え方を共有することで、的確な指示が不要になるという意思伝達の理想形です。「時間はかかるかもしれないけれど、これができたときチームは成長できる」と信じています。

「ストレートな指示ではなくて、考え方の部分を重視する伝え方を心掛けています。的確な指示は、やろうと思えば誰だってできる。でも、的確な指示ってずっと出し続けないといけません。ところが、考え方が統一していれば、事細かい指示は日々いらなくなります。極端にいえば、やり方が違っても考え方があってればいい。時間はかかるけれど、新しい別の仕事をしても、作業がスムーズに移行できます。3年後、5年後、みんな同じ考えをもって、スキルアップしていきたい。」

– 下支えする製造部にいながら思い描くのは、森の学校がさらに飛躍した姿。2016年4月、インキュベーション部門を『エーゼロ株式会社』に分社化し、『森の学校』は木材加工事業に特化する新体制へと移行しました。森の学校として単独の売り上げ目標は「5年後、年間5億円」。

「生産体制をどのように整え、どの部門をのばすのか。現時点である程度見えてないと5年の達成は難しいです。自社のなかで扱える量が一定量決まっているので、自分たちでつくって売り上げ5億円というのはなかなか厳しい。

たとえば、昨年、直島で受注した町民会館を森の学校がコンサル的に関わり、外部の木材や、建設会社を調整して、工場の生産に及ばず外の材料を外で加工して売る案件が増えれば可能。たとえば、このような外注管理で年間1億円やりましょう、となったらぼくの業務ではで手がまわらないので専任を置かないといけないし、そのためには、今動きださないといけません。」
 

– どん底で感じた、この会社への希望。あのとき期待した「跳躍力」は実現しましたか?

「まだまだです。もっと大当たりしないと面白くない。どうせ稼ぐのだったら、百年の森林構想にとっても、社員にとっても、よい仕事の中身にしなければなりません。そして、森の学校の理念に合った内容でないと、仕事を受ける意味がありません。百年の森林構想の理念を掲げた小さな村が、その成功モデルになって全国に発信していく。その先に会社のさらなる可能性があるからです。

木は正直です。丁寧に加工すれば良いものができるけれど、一度手を抜けばダメになる。営業にラッキーはあっても、現場にラッキーはありません。これからも、木にひたむきに向き合いながら、夢物語を現実に引き戻していく。これまでもこれからも、それがぼくの役目です。」

– 本当は何をやりたいのか、「自分らしく」とは何なのか。そんな声が大きい時代に、与えられた環境で、誰かのための明日を切り拓く西岡さん。『移住』の2文字をフックにして、膨らんでいく先駆者たちの物語は、なんだかまぶしすぎる。けれど、西岡さんの生き様が示すのは、決して“選ばれし者”ではなく、誰もがチャレンジャーになれる切符をその手に持っている、ということ。西岡さんがつむぐ誠実な言葉たちを前に、そんな思いが溢れてきました。

※森の学校に興味を持った方は、こちらのインタビューもあわせてどうぞ。
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西粟倉森の学校

http://morinogakko.jp/