岡山県
西粟倉村
にしあわくらそん
「おかえりなさい」が言いたくて。西粟倉村出身のみなさん、Uターンしませんか?
Date : 2021.09.30
ローカルベンチャーや移住、村のSDGsの取り組みなどで、これまで注目を集めてきた岡山県・西粟倉村。
そんな村が今、Uターンの人を増やそうとしています。
それはなぜでしょうか。そして、どんな地域を目指しているのでしょうか。
西粟倉村役場の産業観光課課長の萩原(はぎはら)勇一さんと、『株式会社木の里工房 木薫』の國里(くにさと)哲也さんにお聞きしました。
根っこが西粟倉村だという人も一定数必要
— 西粟倉村では、今どれくらいUターンの人がいるのでしょうか。
萩原:Uターンは(村の人口の)20%くらいだと思います。
國里:そうですね。いつの時代から数えるのかにもよりますが、それくらいかもしれません。実は僕もUターンです。1995年のことですから、だいぶ古いですけど。
萩原:役場にもUターンは正職員の50%くらいいます。あとは家業を継ぐ後継者として帰ってきた人もいますね。
國里:弊社にも、都会から帰ってきたUターンが二人います。そのうち一人は奥さんと子ども二人を連れて帰ってきたので、そのお子さんは子ども時代を西粟倉村で過ごしています。
— Uターンを増やしたい理由は何ですか?
萩原:地域では、後継者がいないからこそ耕作放棄地などのいろいろな課題が出ています。お祭りや神社の行事なども、人がいて地域のコミュニティが守られていないと実行できません。今は、Iターンの人たちの力もあってなんとかぎりぎりもっている状態です。
だから次はUターンの人たちが増えてくれれば、と。これまで村には多くのIターンの人たちが来てくれて、それを喜んでいますが、根っこが西粟倉村だという人も一定数必要だと思うんです。バリエーションの一つとしてUターンも増えたらいいですね。
國里:僕も西粟倉村の出身者が一定数いたほうがいいと思います。昔から「村に子どもが増えてほしい」と願ってきました。
萩原:子育て世代に帰ってきてほしいですよね。それが、地域が続いていくために必要な条件。
國里:村で育っている僕は、子どものときに神社に行ったとか、悪さをしたとか(笑)、思い出も思い入れもあります。いまだに神社の境内でふと昔のことを思い出すときもある。そういうノスタルジックな思いがあるから、例えば境内の掃除当番があって面倒に感じても、行けるんです。
萩原:村で育てば、一人ひとりが村に紐づくストーリーをもちますよね。僕がぜひ「こうなったらいいな」と願っているのが、村の出身者が「西粟倉村出身です」と自己紹介をしたときに「すごい!」と言われるようになること(笑)。そういう状況になれば、Uターンが自然に増えるかもしれません。
國里:西粟倉村に根を生やして「西粟倉村出身です」と言ってくれる人が増えたら、うれしいですよね。西粟倉村出身という連鎖が続いていかないと。
萩原:“人の連鎖”が切れると地域がなくなってしまう。その連鎖に、西粟倉村に紐づいている土着人がいてほしいですね。
西粟倉村での仕事が増え、子育て環境も充実している
— 西粟倉村は移住者が多いですし、Uターンが増えそうな環境づくりは、既に進んでいますね。
國里:必要なのは、まず仕事ですよね。大阪で製薬会社に勤めていた僕がUターンした頃は、「村で職を選ぶ」という概念はありませんでした。選択肢は役場か土建屋か工場勤務くらいしかなく、しかも募集がなければ選べなかったけれど、今は『西粟倉・森の学校』を皮切りにいろいろな企業が村にできて、選べるようになってきています。この20年の変化を、プラスに感じてほしいです。
萩原:子育ての環境面では、役場の正面に公園ができましたし、未就園児の親子が気軽に利用できる子ども館や、ほぼ100%村産の木材を園舎に使った、木のぬくもりあふれる西粟倉村立西粟倉保育園もあります。
國里:小中学校は少人数のクラスなので、先生の目が届きやすく、子どもが授業に置いていかれることがありません。その結果、村の子どもの学力レベルは平均的に高いほうです。私にも子どもがいますが、学校なのに学習塾で見てもらっているような感覚があります。
萩原:これまでは、成績優秀な子ほどいい高校・大学に進み、都会で就職する傾向がありました。でも、いい学校を卒業すればいいという時代ではなくなってきていますよね。いろいろな就職口があり、優秀な人も村に帰りやすい状態をつくれればいいなと。例えばIT企業とか、都会の企業のサテライトオフィスとか、就職口の選択肢にもう少しバリエーションがあるといいなと思っています。受け皿をしっかりつくりたいです。
— 移住相談などを受けたときに、ほかに伝えていることはありますか?
國里:中学では選べる部活が少ないこと。男子だと陸上部か卓球部、女子だとそれに加えてバレー部があるだけです。小学生で野球がしたくてクラブチームに行っている子はいますよ。他には、文化部がいくつかあるくらいです。
もう一つ、村に高校がないことも伝えています。西粟倉村から通える高校は5校あって、県内に3校、鳥取に1校、兵庫1校です。そのほかの学校へ進学する場合は寮生活になります。僕の子どもも、現在寮生活をしています。
田畑と山林の管理は「担い手農家」「百年の森林構想」がある
— Uターンするうえで、何がネックになると思いますか。
萩原:それは、その家が所有している田畑、山林の問題が多いでしょうね。
國里:父が亡くなったとき、僕は「これから田んぼをやらなきゃいけないのか」って思ったんです。家を継ぐということは僕がすべてを管理しなくてはいけない、田んぼもやらなければいけないと重々理解はしていましたが、会社経営をしているので、実際には難しい。心苦しさがありながらも仕事を犠牲にできなくて「(田んぼは)やれない」って判断したんです。
今は、叔父が「担い手農家(市町村の認定を受けた認定農業者)」をしていて、農作業を叔父にお願いしています。担い手農家とは、農作業ができる人がいない田畑の農作業を請け負ってくれる仕組みです。これがなかったら僕は苦しんだと思います。
萩原:今、村に担い手農家は10数人います。そのうち米づくりをしているのは9人。その平均年齢は70歳近いので頼りっぱなしではいけないんですが、所有している田畑や耕作放棄地をどうしたらいいか分からない人に解決法はあるよと伝えたいですね。
國里:山林を所有している人には、村に「百年の森林(もり)構想」があって、管理を請け負ってもらえる仕組みができていると伝えたいです。
萩原:スーパーで米が安く買えるようになって、自分でつくったほうが安いという時代ではなくなっているじゃないですか。これから、住み方をデザインし直して、時代に合ったUターンしやすい環境をつくっていかないといけないと痛感しています。
親の意識と、本人の「帰ってもいいな」という気持ちが大切
— 國里さんがUターンした理由は何だったのですか。
國里:僕は「お前は跡取りだから、将来は帰ってこにゃいけん」と言われて育ったんです。それで「そういうものだ」と思っていたので、「どうせ帰るなら今帰るか」って思いました。弊社でUターンしたスタッフも、「あんた帰ってこんか」というお母さんの言葉がきっかけだったそうです。
萩原:僕もそういう風に育てられた気がします。県南の学校を卒業して帰郷するとき、違和感がなくて、村に帰ってくることに悪い印象がなかったんです。当時はバブルの時代だったから「こんなとこ(村)にいてもしょうがない」と言う大人もいましたけど。本人が「帰ってもいいな」「帰ってもいいよ」と思えるかどうかが大きいですね。
そうなると、子どもの頃に親が提供する教育や、Uターンを親が悪く言わないことがすごく重要。住みやすさや子育て環境も大事だとは思いますけど、Uターンする要素って、実はそういう文脈じゃないのかも。
國里:親のほうにも発信していって、村の魅力を自覚してもらえたらいいですね。
萩原:特に、中高生の子どもがいる親に向けて発信することが大事だと思います。我が家では、寮に入っている高校生の娘がたまに帰ってきたときに「落ち着く」と言っているので、「そういう選択肢もあるよ」と今から話しています。
國里:僕も高校生の息子に「好きにしたらいいけど、帰ってきてもいいんだよ」と言っておこう(笑)。親として「一度は外の世界を知ってほしい」とも思っていますけどね。
— 最後に、Uターンを検討している人に向けてメッセージをお願いします。
國里:西粟倉村は変わりつつあります。昔とは違っていろいろな企業が増え、今村に住んでいる小中学生にとっては、村に仕事があるのが当たり前になっています。
2020年、弊社に新卒が二人入社しました。大阪府出身と埼玉県出身の子です。県外出身者は西粟倉村の魅力を発見してくれている確率が高いように感じています。こんな西粟倉村の変わりつつある渦の中に、一緒に入ってみませんか。今村外にいる西粟倉村出身の大学生で、西粟倉村が大好きで村自慢をしている子もいて、どんどんそういう雰囲気をつくっていきたいです。
萩原:村出身の人にとっても、そうやって新卒の就職の選択肢に、村の仕事があがってきたらいいですね。
西粟倉村は、豊かに幸せに暮らしていける地域でありたいと思っています。そのためには先ほども話したように“人の連鎖”が必要です。地域だと一人ひとりの存在に大きな意義があって、その人が楽しく暮らすことが地域の一部になっていきます。ぜひ、一緒に楽しく暮らしませんか。