鹿児島県

錦江町

きんこうちょう

大規模農業の立役者「しっかり稼いで、しっかり遊ぶ」

収穫期を迎えたネギ畑が、どこまでも青々と広がっている。寺田洋人さんは畑に立ち、カメラを向けると照れながらもポーズをとった。

農業法人「テリーファーム」は、いまや錦江町の大規模農業を牽引する一社だ。45町歩に及ぶ畑で露地野菜を栽培。春から夏にかけて稲作した田んぼを、冬場はネギ、キャベツ、レタス、トレビス…といった葉物の栽培にフル活用する。20年前まで馬鈴薯一色だったこの一帯の風景を、青々とみずみずしい光景に変えたのは、寺田さん本人だ。

「儲かる農業をしないとだめだ」と厳しい表情をする一方で、テリーファームという農園名の由来を訊ねると「プロレスが好きなもんだから」とにっと笑う。ユーモアがあって愛嬌があって、でも農業には真摯で。そんな寺田さんの話だ。

 

プロレス由来の「テリーファーム」

 ネギ畑の広がる前のガレージの看板には、「株式会社テリーファーム」の下に大きく「ブッチャーアグリガレージ」とあった。子供の頃からプロレス好きで、学生時代にはIWGP愛好会に所属していたのだと、のっけから農業とは違う話でひとしきり盛り上がる。

 

「1977年12月の世界最強タッグのリーグ戦を見ていた時に、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクがブッチャー相手に闘っていて、テリー負けるな!頑張れ!って応援していた時に、あ、農園の名前もテリーでいいなと思ったんです」

もの心ついた時から、いつかは父の後を継いで農家になるんだろうと思っていた。大学を卒業後、一度は修行のために就職しようかと考えたが、面接時から「上から目線の相手」と大げんかして帰ってきたという。

 

「やっぱり人に使われるのは向いてないんでしょう。もう農業しかないなと」

 

テリーファームの主力は露地野菜だ。父の代では花き農家だったが、20年前に露地栽培に転向。それがうまくいった。栽培面積はどんどん増え、14年前に法人化した。

 

青空の下、ネギ、キャベツ、レタス…の畑が見渡す限り広がっている。ほかにもトレビス、ロメインレタス、サニーレタス…と多種多様。夏は米のほか、里芋なども手がけている。

販路は鹿児島だけでなく、福岡や大阪、沖縄と広い。ネギはイオンのプライベート商品でもあり、ほかは主にスーパーマーケットやカット工場に送られる。最近は、冬でも鮮やかな青ののったネギを求めて、宮城県など東北地方からバイヤーが訪ねてくるという。

 

「このあたりは冬場に葉物をつくるのに適しているんです。露地でも霜がほとんどおりないし、きれいに育つ。夏場は長野あたりの涼しいところでつくられるレタスやキャベツが、冬は錦江町で露地でできる。いま、うちの規模でやっているところは、このあたりには他にないと思うよ」

 

もともと、馬鈴薯の産地だったこの一帯で寺田さんが露地栽培を始めて、ネギ、キャベツ、レタス…と増やすにつれて、冬場の畑がどんどんみずみずしい青に置き換わっていった。

 

地獄をみた後の、新たな挑戦

現在61歳。転機は、25年ほど前に勧められて水耕栽培を始めたことだった。それは寺田さんにとって新しい挑戦であり、苦難の始まりでもあった。水耕栽培ではたしかに収量は上がり、いいときには1000万円もの売上が立つ。だが、経費がかかりすぎたのだ。

 

「あの頃は、地獄をみました。冬場はいいけど、夏は液を冷やすための経費がすごくかかる。3年くらいは続いたかな。採る量は増えるけど売り先がないので、借金だけが残りました。

 

嫁さんに『明日から生活どうする?』って言われて。貯金もないし、そりゃどうにかせにゃならんなと。山口まで営業に行きましたよ。いま一番下の子供が大学4年だけど、その子がまだ小さかった頃の話です」

ネギの露地栽培の話が新たに舞い込んだのは、ちょうどその頃だ。渡りに船とはこのことだろう。

 

「農業高校の後輩が、ネギをつくっているから寺田さんもつくりませんか?と言ってくれて。それで最初はネギをつくり出したんです。そこからずっと露地栽培です」

 

水耕栽培で苦労した時期に、各地をまわって多くのバイヤーと知り合いになったことも、その後の販路開拓におおいに役立った。

 

「当時、大きい法人の農家さんに行っては次を紹介してもらってという方法で営業していました。10億円規模で売り上げているような農家さんは、仲買いもしている場合が多いので心も広くてね。一緒に儲かろうってスタンスの人が多いからどんどん紹介してくれた」

 

そうして築いた人と人のつながり、寺田さんいわく「ヒューマンネットワーク」に支えられてここまできた。キャベツ、レタスと栽培する作物を増やし、ネギは畑から週に10トン近くが出荷されるまでになった。

 

「土づくり研究会」を発足

テリーファームは今や地域の農業を支える地元に欠かせない存在だ。45町歩という面積もさることながら、従業員が4名、海外からの技能実習研修生8名。寺田さん自身、新規就農者の指導員もつとめている。

 

「若い農家が増えてほしいと思いますよ。俺は“食える農業”を教える。でもそのためにちゃんと勉強しなさいというんです」

 

しっかり稼いでしっかり遊ぶ。それが寺田さんの信念でもある。

 

「都会から来て農業したいという若者はDASH村を思い描いているんじゃないかなと思うんです。あれは簡単には無理よ。ギャラが出ているからああいう農業ができるわけです(笑)」

 

ではどうすれば儲かる農業ができるのかと問うと、「勉強することだ」と言う。

「ちゃんと儲けて、しっかり休める農業を目指すには、勉強しないといけない。私も30年前から10年前まで『土づくり研究会』をやっていました。二つ上の先輩が会長で、私が副会長で。大事なのは土づくり。いい先生を呼んで講演してもらうんです」

 

土がよくなれば収量が増える。一反あたり10の収量が15になれば、売り上げも1.5倍になる。地域の農家みんなで栽培技術を上げれば、みんなで儲かるからと始めた会だった。

 

「でもみんなプロだしプライドもあるから質問しないんだよね。私はわからないことはどんどん聞きます。先生、なんで?何でそうなるのって」

 

研究会は10年前に終えたが、寺田さん自身はまだまだ実践しながら勉強を続けているという。

「肥料屋さんにアドバイスもらいながら、こうなるんだけど、何で?って聞きます。うちでは作物にこういう症状が出たけど、こうしたら治るんじゃないなど近所の農家ともやり取りするし、社員ともするし」

 

テリーファームでは、常に実験的に品種を変えたり、肥料を変えてみたりと試験栽培を繰り返している。

 

従業員も日々成長しているという。栽培計画まで任せられるようになればもっと楽ができるようになる、と寺田さんは嬉しそうに話した。

 

「農業ほどいい仕事はない」

工場を訪れると、スタッフが出荷前のネギの検品をしていた。

寺田さんに「社長も、働いてください」なんて声がかかる。そんな冗談が飛び交うほどに愛されている社長だ。

 

今年、寺田さんにとっては嬉しいニュースがあった。ずっと「自分の好きに生きたらいい」と言い聞かせてきた長男が農業をしたいと帰ってきたのだ。

 

「唐突にね。嬉しいは嬉しいよ。でも農業もいいことばかりじゃないし、厳しさも教えなきゃいけないから。やるんだったら独立して自分でやれよと言ってある。テリーファームの社員にはしないの。

 

もちろん技術は教えるよ。今は、うちでつくっていないスナップエンドウを栽培しています。うちの仕事を手伝ってもらう分はアルバイト代を払って。でも従業員としてじゃなく、経営もしながら覚えろよって」

従業員じゃなく自分で頑張れと背中を押すのも親心なのだろう。

そしてもう一つ、農業は家族経営でやるのが当たり前ではなく、産業にしたいという思いがある。

 

「意識が、百姓のままじゃだめなんです。農業は第一次産業、“産業”ですよ。トヨタと同じ。そこを意識して仕事しないといけない。だから勉強しなさいって言うんです。そして外に出て人と会いなさいと。いろんなバイヤーを知っていれば、バイヤーがこれつくれませんか?と言ってくる。その時技術があれば、何でもつくれる」

最近ようやく、従業員に任せられることが増えて、寺田さん自身の気持と時間に余裕ができた。そこで田代地区に畑を借りて、ミニ果樹園をつくって楽しんでいるという。

 

「趣味ですよ、遊びで。果樹を植えたりキノコの駒打ちしたり。田んぼから出た石を庭に積んでバーベキュー場をつくろうと。それこそDASH村です。丸太のあずまやや囲炉裏部屋もつくろうと計画しています。ニジマスを釣って、焼いて飲みたいなと」

 

稼げる農業をして、しっかり遊ぶ。もちろん、サラリーマンの方が安定しているけれど「農業ほどいい仕事はない」と寺田さんはいう。人から使われることもなく、自分がやりたいことをやりたい時にできて、収穫する喜びも大きい。

 

「そうやって稼ぎながらDASH村するなら、この町がいいよ」

そう言ってまたにっと笑った。