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西粟倉

にしあわくら

西粟倉で起業しませんか:障害があっても、誰もが自由に出歩き暮らす、おおらかな村を目指したい

中野治さんは、看護の学校を卒業して西粟倉村の保健師になり、この仕事一筋。誰よりも人の人生に寄り添い、丁寧に話を聞く日々を送ってきました。保健師の仕事は、生まれてから亡くなるまで、地域でよりよく暮らすための手助けをすること。中野さんが、この職に導かれたのは、大学時代にお世話になった先輩やアルバイト先の病院での経験があったからだそう。西粟倉ローカルベンチャースクールでは、「引きこもり就労支援」や「障害者のグループホーム」というテーマを掲げ、西粟倉村が、社会的には弱者といわれる人たちへも、さらにひらかれた村になることを望んでいます。
 

山の向こうを見たい。その気持ちが原動力

中野:静岡市の山あいで育ちました。こだまがするような谷でね、小学生だったある日、ふと思ったんですよ。あの山の向こうに何があるんだろう、と。今でもずっと、山の向こうを見てみたいという気持ちがすべてのモチベーションです。中学校の頃に植村直己さんの本などを読んで、冒険って面白そうだと思って、高校時代から山岳会に入らせてもらっていました。この頃もまだ見ぬところへの憧れがあって。ちょうど、アフリカの飢餓が叫ばれた頃だったから、漠然となにか協力したいという気持ちで、農学部のある大学を目指したんです。

– 飢餓を解決したいと思ったんですね。

中野:農学部に行けばなにか関われるかな、という気持ちでした。大学は、本当は東京に行きたかった。でも、尊敬していた高校の先生が、「岡山も受けたらいいんじゃないの」となぜか言ってくれたんです。その先生は研究者として蝶を追いかけて何度もロシアに行くような、すごくすてきな人でした。結局東京の大学は落ちたので、岡山大学の農学部に進学しました。

– 農学部と今の保健師の仕事はまだまだ遠い感じが…。

中野:大学でボランティアクラブに入ったことが、その後の人生に大きな影響を与えました。障害を持ったお子さんのグループを支えながら、一緒に地域活動をするようなクラブでした。一個上にすごい先輩がいて、今でも目標なんです。

不登校で家出してしまう子がいたんですが、何か問題を起こしたら、先輩はその子をいつまでも追いかけて回るんです。いなくなったら探して、一緒に飯を食って、一緒に家族に謝りに行って、私も呼ばれてつきあって、ひたすらぐるぐる回る。その子もかわいかったけど、先輩すごいなぁという想いがどんどん強まっていきました。ちなみに、その先輩は今は教師になっています。そのうちに、精神科の病院でアルバイトを始めて、こういう世界もあるんだと知っていきました。

– アルバイトはどんな内容だったのですか。

中野:最初は、「不登校の子たちがいるから勉強教えてくれ」って言われて病院へ行ったんです。2、3回通ううちに、精神科、心療内科の病院だと分かってきたんですが、閉鎖病棟がない病院でした。そこでは、子供と大人が一緒に勉強したり遊んだり、キャンプもしましたね。何でもさせてもらえる環境でした。

– すごく開かれた病院だったんですね。

中野:そうですね。基本的に病院の生活はあるんだけど、本当はその人が生まれた地域があり、病気を抱えている人であっても地域で暮らしていけるはずだという想いを持った病院でした。職員の方、患者さん、両方と向き合う中で、誰もが地域で暮らせる社会が必要なのだと考えるようになりました。

– そのお話を聞いて、福祉の領域を仕事に選んだ理由が分ってきた気がします。

中野:でもいきなり保健師を目指したわけではないんです。教員採用試験を受けたんだけど、落ちちゃって。そのときに、看護師の免許を取って保健師になる道を教えてくれた人がいて、そこから看護学校に3年、保健師の資格を取るために1年勉強しました。4年間学校に通わなくてはいけなかったのですが、バイト先の院長先生が「働きに来い」と言ってくれて、夜働いて昼に学校に行く生活をしていました。

 

「ここで生きる」を支える保健師の仕事

– 4年間勉強して、保健師の資格をもらったという状況になるんですよね。すぐに西粟倉村役場に就職したんですか。

中野:そうですね。平成10年、29歳の時ですね。当時は住民課の中で健康づくりとか福祉とかというところで、そこが特化して保健福祉課になったんですけどね。

– 新しい土地での生活です。場所にこだわりはなかったですか。例えば静岡に戻るという選択肢もありそうですが。

中野:それはなかったです。大学からずっと岡山にいましたから、県内にいたら自分が世話になった所にお返しができるんじゃないかと思っていました。

– どういう仕事を思い描いて保健師を目指したのでしょうか。大学を卒業してから新しい分野でさらに4年も学ぶって、覚悟とか強い想いがないと難しいと思うんです。

中野:「人がここに生きることを支えたい」と思っていました。生まれて、生きていく、死んでいく。それだけのことだけど、土地に根ざして生を全うできるように、と言えばいいかな。

– 確かにそうですよね、保健師って生まれたところから亡くなるまで、暮らし全てを支えるみたいなイメージです。出産後の訪問、小児科検診、子供から高齢者までの健康づくり、介護予防など、「ゆりかごから墓場まで」ですね。
 

中野:私は、人が生まれて死ぬまでの「暮らしたい」という想いの横にいたいんです。何かできることがあればしていきたい。おこがましいかもしれないけれど、そんな気持ちで仕事をしています。人が望む暮らしというのは、深いところにあって表に出ず、日頃のことに流されている場合もあります。話をずっと聞いて、一緒に探していく中で、「あ、こう暮らしたいな」、暮らすために何が具体的に必要かな、と手助けするテクニックとして身につけているのが、いわゆる保健という分野なんです。

あとは、家が足りないとか、自分に合った仕事がないときに、福祉の出番なんですよね。その人にあった仕事や家を手配して、持ってくる。あくまでも、真ん中にあるのは「自分のしたい暮らし」なんです。
 

西粟倉の自然環境をいかした、新しい福祉サービス

– 今回のローカルベンチャースクールの「障害者のグループホーム」や「引きこもり就労支援」の提案は、中野さんの中ではずっと温めていたものだったとうかがっています。

中野:自分が保健師になるきっかけをつくってくれた方たちは、精神障害の方であったり、障害を持たれた方たちであったりしました。彼らは、引きこもるという所作を取る場合もたくさんあります。いわゆる普通に働いて暮らす世の中から、一歩引いているところにおられる方たちとどう生きるのか、若いときから考えていました。

– 西粟倉村にも、そういった方たちが多く暮らされているのでしょうか。

中野:1,500人という小さな村ですが、約130人ほど障害を持たれた方がおられます。身体障害の方がほとんどですが、精神障害、知的障害の方も少数います。今、村には通所施設はあるのですが、グループホームがない。そういう施設に入ろうと思ったら、西粟倉村を離れて、近くの市に行くしかない。あとは、引きこもりの方も少数おられますね。

– 今、西粟倉ではNPO法人じゅ~くが運営する、就労継続支援B型事業の作業所プラスワークがあります。けれど、それだけでは居場所がまだまだ足りない状態でしょうか。

中野:じゅ~くが2014年にオープンして、はじめて村に障害者のはたらく場所ができた。それまでは村の障害者は、他の市へと働きに行くしかありませんでしたし、利用者の方々をていねいに支えてくださる取組に、すごくありがたいことだなと思っています。さらに村の現状を考えると、障害を持つ方については働く場所だけでなく、住まいとして生活できる場所も必要です。

– 障害を持つ方や困りごとを抱える方たちの生活を支えていくための、今回の提案なのですね。

中野:そうです。障害を持つ方向けのグループホームについては、困っている方の母数も多く、新しく始めるとなったら定員もすぐ埋まると思います。

ただ、引きこもりの就労支援などはなかなか難しくて、一定の利用や定員が見込めないと、国の補助金なども降りません。うちのような人口が少ない村では、定員が確保しづらい。かといって、利用者さんに全額負担いただくようなサービスも、なかなか成り立ちません。

– きっと、日本全国の過疎地域で、同じようなことが起きているのかなと思います。キャリアにつまずいた人が再チャレンジしていくことが、難しくなってしまっている。どうしたら、そこを突破できるのでしょうか。
 

中野:村の人だけを対象にするのでなく、村外の人にも来てもらえるような新しいサービスが、必要なのかなと思っています。西粟倉の自然環境をいかしていくというのも、いいかもしれません。畑仕事だったり、自然の中を散歩したりというのは、引きこもりの人の就労へのステップアップに、すごくいい。体も動かせるし、自然に生活サイクルを整えていったり、都会ではできないことがこの村ではできると思うんです。
 

特別な技能はいらない。側にいる、が大事

– 今回の2つの提案には入っていませんが、日々お年寄りと接する中で思いついたアイデアがあるとお聞きしました。

中野:お年寄りの活躍の場、いろいろとあると思うのです。西粟倉の高齢者の皆さんの多くは、農業が好き。腰が曲がって、身体に痛みがあっても、冬の間に春になったらあれを植えようと計画を立てるんだそうです。介護予防的にいえば、3月にこれを植えて、4月になったら田んぼのあれを作ってという、複雑な段取りを当たり前にやっている。1月に行くと皆さんじっとコタツの中にいるんですけど、3月に訪問したら日中は誰一人家にいないんですよね。「あれ、どこにおられるのかな」と思って見に行ったら必ず畑におられて作業している。

重くて肥料や薬はなかなか撒けないから、結果的に安全・安心な野菜ができてるんです(笑)。たくさん収穫され、ご自身のところだけでは食べきれないから、近所や離れて住むご家族、お知り合いに配られている。「こんなにあったら売ったらいいのに」って言うんです。そうしたら「売るところに持って行くのが大変なんだ」「誰か回収してくれたらいいな」って言われたんですよね。耕運機で耕してくれたり、野菜を集荷してくれる人がいたら、すごくいい循環が生まれんじゃないかと考えているんです。

– 役場職員の井上大輔さんが話されている「フードハブ」のテーマにもつながるお話ですね。

中野:みなさん家族の中での役割を全うしたいと思っているんです。お年寄りに話を聞くと、多くの方が最初は「私は駄目なんじゃ」っておっしゃられるけれど、1時間くらいお話しいただくと必ず、「でも頑張らにゃな」って希望の言葉で終わられるんです。どの方も。これはびっくりしました。

– 生きがいがあることが、何よりも生きる力になる。お年寄りたちは家族のためだし、中野さんもすごく人のために動いていますよね。今回の提案も、立場の弱い人のためのものです。

中野:人のためと思ってないんですけどね(笑)。毎日思うんですけど、誰かが喜ぶとか誰かのために自分ができることを考えるのって最高の贅沢。落ち込まないコツでもあるんですよ。自分のこと考えたら絶対受け身になるけれど、「あの人の願いを叶えたい」と思っているときは嫌なことを考えないです。

– 今回のローカルベンチャースクールでは、どんな人が来てくれたら嬉しいですか。
 

中野:専門職でもそうじゃなくてもいいんですが、困っている人の話を聞きながら、事業を組み立てられる人。あと粘り強い人がいいと思いますよ。例えば引きこもりは、人生の一時期、その人にとって絶対に必要な時期だったんじゃないかなと思うんですよ。引きこもりはネガティブな状態ではなくて、次へのステップ。未来を一緒に探していける人がいいですね。

理屈通りにいかなくて、行っては戻りを繰り返すのが人間じゃないですか。期待しすぎると、裏切られたと感じることも多い。粘り強く、なにがあっても横にいるぞという芯がある人だったらいい。福祉の仕事は、どんな分野でもそんな心意気が必要です。

– 今回提案していただいたことが解決したら、西粟倉村はどんな村になるでしょうね。

中野:前に、ヨーロッパで、精神障害者の方がたくさん住んでいる町があると聞いたことがあります。西粟倉は、すでにいろんな方がいて多様性がある地域だと思います。それがさらに、障害がある人や引きこもりの人たちも含めて多様性になっていけば、素敵だと思います。いろんな人が一緒に暮らしていくのは、楽しいはずです。

– 中野さんのまなざしがいいですよね。「楽しそう」とか、「ちょっと変わってる人いるな」くらいがいいんだろうなと思いました。

中野:だって、幻聴にしても「ああ聞こえてくるよ、幻聴ぐらい」と気軽に言えたほうがおおらかで住みよくないですか。誰もがみんな個性的だし、見方を変えれば普通だし、大らかに捉えていたいんです。西粟倉村は、認知症の方がいても別に差別することもなく、誰もが支えあって暮らせる村の素地はしっかりあると思います。引きこもりの人が外へ出歩けて、障害者の方が困っていたら声をかける。そんな風景がもっと広がっていくのかなと思います。想像してみると、やっぱり、素敵ですね。

西粟倉ローカルベンチャースクール2016

http://guruguru.jp/nishihour/lvs