北海道
厚真町
あつまちょう
つくってきたのは、安心な味噌と女性の自信。JAとまこまい広域女性部厚真支部・おふくろみそ物語
Date : 2017.11.30
北海道の中でも比較的温暖な気候で、積雪の少なさから、豊かな作物が採れる厚真町。ここに地元の農家のお母さんたちが厚真産の大豆・米だけを使い、添加物を一切入れずに30年以上作ってきた「おふくろみそ」があります。味噌の深く優しい味わいには、厳しい減反政策や凶作による農業経営の危機を乗り越え、農家の女性たちが意思を持って活躍するまでの歴史が詰まっていました。
“手前味噌”に込められたこだわり
北海道厚真町の一角にある、おふくろみその加工場。JAとまこまい広域厚真支部に加盟する農家のお母さん方が、冬に味噌仕込みをする場所です。一歩入ると、濃く深く、奥行きのある香りが鼻をくすぐります。
中では数人の方が、手作業で味噌を詰めています。「ほら、食べてみて。おいしいから。」樽から味噌を差し出してくれたお母さんの笑顔には、確かな自信が感じられます。いただいてみると、幾重にも渡ってさまざまな味わいが顔を覗かせました。
この味噌に、厚真ならではの物語が詰まっていると伺い、JAとまこまい広域女性部の方を訪ねました。話をしてくださったのは、女性部味噌作りを初代として牽引してきた宮西純子さんと、現在統括をされている佐藤美奈子さんです。
– まずは、おふくろみその特徴を教えてください。
宮西:この味噌は厚真産のトヨムスメという大豆と、きらら397という一等米を使っています。市販の味噌は、結構化学調味料が入っていたりしますよね。でもおふくろみそは添加物が一切入っていないんです。とにかく糀の甘み、大豆の甘みだけを活かして作っています。塩分も食塩じゃなくて天然のものを使っています。
佐藤:防腐剤も入っていないんですよ。その代わり、保存が効くように塩分量を調節しています。とはいえ、今は減塩のお味噌が人気なので、塩分バランスは試行錯誤しながらやってきましたね。
– おふくろみそは、どのようなな方々が作ってこられたのですか。
宮西:元々はJAとまこまい広域婦人部(現:女性部)で味噌作りを始めたのがきっかけです。女性部は、JAとまこまい広域に加盟している農家のお母さん方が任意で加盟していて。普段は自分の家の農業をやっているんですが、冬場には一通り収穫も終わっているので、その時期を利用して作っています。30年以上の歴史があって、今も冬場に10人ほどで味噌を仕込んで、販売しています。
– ほとんど厚真産のもので作られているようですが、原料にはどんなこだわりがありますか。
宮西:トヨムスメという大豆は白目大粒と呼ばれているんです。おふくろみそはとても優しい色をしてるんですが、それはトヨムスメという白目大粒の大豆で、大豆のサヤに付いている部分が白いからなんです。そして粒に肉質がある。本格的に販売する前はあまりこだわりなく、それぞれ部員さんが大豆を作って持ってきて作る、という感じだったんですけど、どうせ売るならと先輩たちが研究を続けた結果、この原料に行き着きました。
厚真の食べ物は美味しいものが多いんですけど、中でも大豆は評判をいただいていて、それがそのままおふくろみその美味しさにつながっていると思いますね。
佐藤:米糀の方も、評判は良いですね。糀だけでも注文をいただいています。最近は自家製のお味噌を作る若い方もいるそうですけど、大豆は家で煮るところからやり、糀はうちのを使うという方もいるみたいです。
– お味噌を実際にいただいてみて、とても深い味わいがありました。お料理に使うとしたら、どんな風にいただくのが美味しいんでしょう。
宮西:すべてかな、何にでも合うと思うんだけども。私は子どもの頃は農家ではなかったもので、嫁ぐまでは市販の味噌をずっと食べてたんです。でも今はこの味噌が一番って思いますね。化学調味料が入っていると、なんだか独特の甘みがある感じがしますけど、これは本当に素材の甘み、旨味でいただけるというか。文字通り、手前味噌になってしまうかもしれませんけどね。
家計を支えるための味噌が、厚真の味になるまで
– おふくろみそ作りは、いつから始まったのでしょうか。
宮西:きっかけは、昭和55、56年の減反政策と、大冷害でした。米の栽培に制限がかかった上の大冷害で、各農家の経営状況が厳しくなっていたんです。女性部としても、それぞれの家の家計を支えるために何かできないかという思いがありました。この辺りでは大豆を作る農家が多くなっていたので、それを使ってお味噌を作ったらどうかということになったんですね。
佐藤:最初は売り物としてではなくて自分達のために作る、っていうことだったんです。
– そうなんですね。このあたりでは、味噌づくりは一般家庭でも行われていたんですか。
宮西:昔は、家庭で作ってる人もいたみたいです。ここは元々お米中心の町だったので、春から秋にかけては忙しいですけど、冬場は多少時間があったから、その時期に仕込んでいたのだと思います。
でも女性部で味噌作りを始めたころは、市販品を買う家が主流になっていて、最初に味噌作りの担当になった役員さんも、自分で作った経験がなかったそうです。それで、近所のおじいさんおばあさんに聞きながら、手探りでスタートしていきました。
– 家によって作り方も様々だったでしょうし、大変なことも多かったでしょうね。
宮西:昭和58年に町内の施設を改装して、小さな加工場を作ったんですけど、まず製糀器で糀を作ろうと何度やっても、糀の花が咲かない。原因は何なのかよくよく調べてみると、機械が寒冷地向けでないことがわかったり。それで灯油ストーブを持ち込んで室温を上げて、当時農協の参事さんや役員の方が寝ずの番で何回も見に行ったり。そうやって時間と労力をかけて、ようやく糀の花が咲いたんですよね。
私は2代目なので、ご苦労された先輩から話を聞いているだけなんですが、本当に一冊の本になるくらい苦労続きだったみたいで。それでもやっと、最初の味噌が完成したんです。
– 味噌の味はどうだったんでしょう。
宮西:組合員が各家庭で出してみたら、苦労の甲斐あって好評で。家だけで食べてるんじゃもったいないと、今度は隣近所におすそわけするようになっていったんですね。それで「この味噌、どこで買えるの?」って評判になりました。
– 本格的に販売するようになったのはいつ頃ですか。
宮西:昭和62年ですね。加工場ができて、4年ほど。ここではじめて「おふくろみそ」という名前をつけて、販売を始めました。
自らの意思で生きたい。女性たちの想いが原動力に
宮西:最初の加工場では、7、8年味噌を作っていました。そのうち、需要の伸びとともに生産数も拡大したいということで、従業員もどんどん増えてきて、加工場が狭くなってきたんです。それで、女性部で新しい施設の設置を農協に求めるようになりました。平成7年ごろのことです。
– 女性部で施設を作ろうという動きは、当時かなり珍しかったのではないでしょうか。
宮西:そうですね。農協に掛け合ったものの、最初は既にある施設の一角を打診されたり、役員さん方に「あんた方、今はやりたい一心で頑張ってるけど、この先も続くのか?」って言われたりしました。でも「いや、続けます!」って、てこでも動かずに訴え続けた。女性部としてどこかにお伺いを立てることなく、自由に味噌作りをするには、自分たちの施設が必要でした。組合長さんに何度も役員会にも足を運んでいただいたりと理解を求めているうちに、ついに、加工場の建設に動いてもらえたんです。
– そのころには、宮西さんも中核メンバーとして関わられていたわけですよね。前例もない中、相当なエネルギーを要したと思うのですが、その原動力は何だったのでしょうか。
宮西:私が厚真に嫁いできたころは、女性の地位がものすごく低かったんです。これは何とかしなきゃなってずっと思ってきたんですよ。
家によっても違うかもしれませんが、女の人は農家に嫁いだら、本当に労働者扱いをされることが多かったんですよね。出かけたいと思っても「行かせてください」って家の人に言うのに一苦労だった。若妻さんなんかは周りの目をすごく気にしなければならない雰囲気で「おばあちゃんが外に出してくれないから行けない」って人のせいにするような風潮もあって。
でも、そんなこと言ってたら女性の地位は上がらんって思っていました。ちょうど私は他の町から嫁いできたし、親戚も近くにいなかったので、他の人が言えないようなことも言ってました。自分は噂になってもいい。その代わり、それをきっかけに女性が考える力をもっともっと持ってくれれば、それでよしって思っていましたね。そういう仲間と共にこの味噌づくりを手がけていたので。一緒になって思い切り言いたいことを言っていましたね(笑)。
– 自分たちの意思で、生きていきたい。その思いがみそ作り拡大の原動力になっていたのですね。
宮西:そうですね。平成7年の夏には、熟成庫も完備した加工場が出来上がって、最大25トンの仕込みができるようになりました。全国的にみても、女性部で持ってる工場であんな立派なものはなかなかないんじゃないかな。機械なんかも、超一流のを入れてもらいましたね。女性部の中から「みそづくり実践集団」も作って、増えていく生産数に応えていった結果、今のように普及したんです。
時代は変わっても、おふくろの味を残したい
– 今や、おふくろみそは様々なところで手に入れられる存在になったと聞いています。
宮西:昔私らがやってた頃は、ある時期限定でしか販売できないという感じでしたけれど、今は道内の何店舗かには通年置いていただけるようになっていますね。
佐藤:最近は他の地域でも様々な味噌が作られているので、好きな人は食べ比べをしているみたいですね。遠方の方でも、ふるさと納税を通じて召し上がってくださっている方も多いです。
– それだけこの地域に根付いてきたおふくろみそづくりを、佐藤さんが引き継がれたときはどんな思いだったのですか。
佐藤:4年前に宮西さんが退任された後、何人かの方を経て、私がやらせていただいているんですけれど、お引き受けした当時は詳しいことは全く知らない状態だったですよ。今思えば、知らなかったからお引き受けできたのだと思いますが(笑)。出身は埼玉で、両親は会社員。厚真とも農家とも最初から縁があったわけではないですし、宮西さんを始めいろんな方とのつながりで、こうなっているという感じです。
– おふくろみその歴史をこうして聞かれてみて、改めていかがですか。
佐藤:いや、すごいと思ってます。初代の方が研究された大豆を今でも使っていますし、宮西さんの世代の皆さんは、働く女性っていう感じで、かっこいいですよね。当時何かをしよう!っていう仲間がたくさんいて、成り立ってきたものなんだなと思います。
– これから、どんな風におふくろみそを作り続けていきたいですか。
佐藤:今は減塩のお味噌が流行っていたり、他にもたくさんの種類の味噌が出回っているので、どうやったら皆さんにおふくろみそを食べ続けていただけるのか、日々迷うことばかりです。でも、贔屓にしてくれるお客さんもいますし、試行錯誤しながら作り続けていこうと思っています。そして、この美味しさは食べてもらえれば分かるかなと思うので、ぜひいろんな方に食べていただきたいですね。
お2人のお話からは、素材そのものへの信頼や、幾多の試練を乗り越えてきたみその作り手に対する敬意、そしてみそづくりを通じて培った自信が感じられました。農家の女性たちの切なる想いによって生み出された、おふくろみそ。先代達が積み上げてきた苦労や努力が、今の食卓につながっています。その30年の歴史に想いを馳せると、より一層美味しくいただける気がします。