岡山県

西粟倉

にしあわくら

ベンチャー企業の夢『森林の再生』を、30年培ったスキルとサラリーマン根性で支える

「自分のスキルを活かして人の役に立ちたい」。大志を抱いて30年のキャリアを捨て、当時の赴任地だった中国から西粟倉へ単身乗り込んだ門倉忍さん。株式会社 西粟倉・森の学校(以下・森の学校)が運営する木材製品の製造所所長として、森の学校を創成期から支えてきました。地方で自立するベンチャー企業の星として、全国から注目を浴びる森の学校ですが、立ち上げ直後は多くの辛苦も経験しています。夢追い人の若者たちを応援しつつ、サラリーマンの心構えを実直に実践して、製造所の仕事をなんとか軌道に乗せました。製造所の仕事を軌道に乗せるために尽力してきた門倉さんが、森の学校の原点を振り返ります。

 

不便な場所で何ができるか。スキルを活かす社会貢献を目指す

– 西粟倉にはIターンで来られたと聞いたのですが、以前はどこにいらっしゃったんですか。

門倉:もともと木とは無関係の業種で、神奈川県でずっと仕事をしていました。そこで担っている大量生産、大量消費のものづくりに対して、限界を感じていましてね。ちょっとでも人のために役に立てないかと思って、中国に行ったんです。中国に行ったんだけど、結果としては2008〜2010年の2年間の赴任期間に、また考え込んでしまいました。

– それまで神奈川でやっていた仕事を辞めて、中国に行ったのですか。

門倉:いいえ。会社の仕事で中国の現地法人の立ち上げ、ものづくりを指導する役割りで行ったんです。そこで目の当たりにしたのは、現地の人たちは安い賃金で朝から晩まで一生懸命働いて、一方で偉い人は夜は酒飲んで豪遊している姿。すごくギャップがありました。勝ち組と負け組が日本よりもはっきりしていて、極端に見える。現地の人に仕事を教えて生産性が上がって、いい品質のものを追求していっても、利益を得るのは偉い人たち。それって癪にさわるじゃないですか。私の仕事は製造コストを下げていくことだけど、このままいくと限りなく血の通った人の力の必要性は、ゼロに近づいてしまう。資源の問題や環境破壊は生産性を上げていけば、もっと悪化するジレンマもありました。

– それは、日本にいるよりも如実に感じたのでしょうか。

門倉:そうですね。自分は社会貢献に携わりたくて中国に行ったんです。30年の経験が世の中にちょっとは役に立つだろうと思っていた。だけど、実際は矛盾が増大してしまったのです。もうひとつ本音をいうと、日々の食事には恵まれなくて、辛かった。そこで、社会貢献をする場所を考え直したときに、日本の田舎、過疎の地域、地方に行ったらいいんじゃないかと思いました。そんな視点で次の仕事を探してみました。
 


現在の製造所では、パート・アルバイトのスタッフも含めて総勢28人が働いている。5月にはさらに移住者2名が仲間に加わる予定。

– 仕事はどうやって探したのですか。

門倉:インターネットで「田舎の仕事」と検索していました。条件にヒットしたのが岐阜県、長野県、岡山県などの3〜4カ所くらい。僕は神奈川の人間だから、比較的近い長野にしようとまずは考えました。だけど、田舎に行って木を切ったり、草刈ったり、もともとのスキルがない人間が行っても足手まといになるだけだと思い直して、やめました。やはり、自分のスキルが少しでも役に立つ場所じゃないと意味がないだろうと。そして「生産管理者募集」という言葉を見つけたのが、森の学校の求人だったのです。

– 確かに門倉さんの場合は、田舎暮らしがしたい、農業をしたい、とかそういうモチベーションじゃないですもんね。

門倉:そうですね。場所よりも「自分のスキルを社会に活かせるか」が先にありましたから。まさに森の学校の求人内容は、自分のものづくりに関する考え方に合致していました。求人を知って1ヶ月くらい経った頃だったかな。お盆休みで中国から神奈川に帰省しているときに、奥さんと一緒に西粟倉に来てみました。

– 初めて来た西粟倉は、どんな印象でしたか。

門倉:本当になにもない場所だなぁという感想でした。神奈川でもそんなに都会に住んでいたわけじゃないけれど、生活はしやすかった。僕は中国に住んでいたから不便に対して免疫があったけれど、奥さんは違っていて、案の定単身赴任になりました。僕としては、住んでみれば、何もないなりに暮らしやすい田舎なのかなと思っています。
 


2010年9月撮影。材木が積まれ始め、製造機械が徐々に整えられていった頃。まだワリバシはおろか、ユカハリ・タイルも生産されていなかった。

 

廃墟の工場を製造現場にするのが最初の仕事

– 2010年の夏に西粟倉で面接をして、その後いつ頃西粟倉に引越して来たんですか。

門倉:働き始めたのは9月からです。さて働くぞと工場に行ってみたんだけど、工場には何もなかったんです。モルダー(床板にさねなどをつける機械)が入っていたくらいで、そのとき社員は4人だったかな。

– その状態では、管理するもなにもない感じ…

門倉:そうだよなぁ(笑)。設備は何も整っていなかったんだ。

– 夏に来たときの面接ではどんな話をしていたんですか。

門倉:面接では、代表の牧さんと話しました。木材の生産管理の仕事で気がかりだったのは、販路はあるのかということ。牧さんは、オフィス内装の仕事と、新しいビジネスとしてワリバシをつくる両輪を考えていると語ってくれました。国産の間伐材を利用して箸をつくるということ、その背景にある国内の林業問題の解決の一助となることを聞いて、すごくおもしろいと思いました。もしこれが本当ならすごいビジネスだ、と。だけど、半信半疑の部分もあった。1日何十万膳ものワリバシが本当にできたら儲かりすぎる。それがこんな田舎で現実のものになるんだったら、なぜ今まで日本人はこのことに気づかなかったんだろう。不思議に思いながらも、オフィス内装の仕事とワリバシの事業と二本柱になるんだろうと解釈することにしました。

– で、いざ仕事を始めようとなったら…

門倉:蓋をあけてみたら違ったわけです(笑)。まずつくるものがないし、売り先がなかった。坂田君や井上君といった初期からの若いメンバーは、楽しいことをやって仕事にしていきたいんだよね。でも、僕はサラリーマンとしてしっかり役目を果たしたい。製造現場っていうのはとにかく地味で地道な仕事だしね。工場を立ち上げて、生産を上げていく目的を持って、給料をもらう以上は稼がなくちゃいけない。そんな立場だったから、ともかくじたばたした。自分の好きなことをやって生きていけるならそんなにおもしろくていいことはないけれど、僕はあくまでもサラリーマンとして西粟倉にやってきていたんです。ギャップがあった。

– そういえば、西粟倉では、門倉さんのようにサラリーマンのアイデンティティを持っている人には、あまり出会いません。

門倉:僕が普通で、西粟倉に移住してきていた人たちが珍しいタイプなんだけどね(笑)。自分の力で自由に生きていける人たちばかりじゃないからこそ、組織や会社が必要です。僕は、普通の人が組織の一員として戦力になれる場所をつくっていきたかった。僕も普通の人だしね。
 


製材機で丸太を板材に加工するところから、製造所のラインは始まる。最初期に入ってきた製造機械の一つ。

– 門倉さんがまず着手したことはどんなことでしたか。

門倉:まずは事業の立ち上げから。でも先立つお金がないし、受け身の状態でした。ワリバシの事業は、提携業者からそっくり受託してつくるものだから、設備が来るまでなにもできなかったんです。することがないから、まずは借り受けていた廃墟の工場を整備して事務所をつくりました。あとは掃除。とにかく暇だったから。そんな時期が3〜4ヶ月続いたのかな。そうこうするうちにどんどんスタッフが集まってくるから、遊ばせているわけにはいかない。僕は、だんだんイライラしてきた。

– やることがないのに、どうしてスタッフだけ増えていったのでしょうか。

門倉:委託してくれる会社が設備を用意する、牧さんは木と人と場所を用意することになっていたんです。牧さんは、その約束を守っていた。「設備はいつ来るんですか」「もう少し待って」というやりとりが続いて、具体的なスケジュールがなかなか確認できない。なにをどうやって準備すればいいかも、誰も分からない状態だった。

– 材料は調達できていたんですか。

門倉:チップになる木でもなんでもいいってことで集めた木なら400立米(㎥)もあった。だけど、その木をワリバシにするにはすごくお金がかかるし効率が悪い。どんな木ならワリバシにできるのか、それすら誰も知らなかったんです。
 

ユカハリシリーズの商品化とニーズに応えた細かい商品群

門倉:そんな状態だったから、提携先がワリバシの機械を開発している富山まで見学に行かせてもらったんです。そうしたら機械はほぼ開発されていない。これでは1年経っても西粟倉にワリバシ製造機械は来ないと僕は判断しました。そのときに「リスク管理がなっていない」と牧さんに苦言というか文句をガンガンいいました。人を信じるのは悪いことじゃない。だけど、モチベーションを持った20人もの人が集まっている状態で、それが根底から覆る状態になるなんて。それから、人を預かった以上、集まった人たちの夢を壊すわけにはいかない、と奮闘しました。とにかく、ワリバシをつくっているところを見に行こうと北海道行ったり、四国行ったり、あちこち行きましたよ。最終的には、奈良県の吉野で昔ながらのわりばしづくりの技術を持っていたので、吉野詣を繰り返しました。それが2011年の春頃のことです。

– やっとスタートラインに立った感じがします。

門倉:そこからも大変でした。「技術の流出はさせない」、「無理だからやめろ」と散々いわれました。でも、何十回も通ううちに、高齢化で廃業していた設備をそっくり譲ってもらえることになりました。その設備を使っていた製箸工場の奥さんが「機械だけあってもはしはつくれないでしょう。うちの工場の2階に住み込んで勉強していきなさい。応援してあげるわよ」といってくれたんです。そこで森の学校から2~3人派遣して、作業の流れを一通り教えてもらうことになったんです。

– 何十回も通った甲斐がありました。教わった技術を西粟倉に持ち帰って、いよいよワリバシづくりがスタートするわけですね。

門倉:そうもいかなかったんです。数十年前の箸づくりで、からくりで動いてわりばしができる。その当時の人はすごいと思いました。ただ、職人技が必要で半年くらいでやっとそこそこのものがつくれるくらい。それではやっていけないから、職人さんがいないと生産ができない作業を工業製品にするのが僕の仕事だった。はしモルダーと呼ぶ機械を据え付けて、オペレーターがパートさんでもいい、俗人化しない機械を開発してもらいました。

– 門倉さんの「生産管理」の仕事ができる環境が整ってきた感じがします。
 


門倉:自社オリジナルのワリバシ製造機が完成したのが2012年の夏くらいだったかな。そのときにはすでに多くのビジネスチャンスを失っていました。生産できるようになったかと思ったら、採算を考えると事業規模を縮小しなくちゃいけない状態で、悔しかったです。規模縮小の判断は、振り返れば間違いじゃなかったと思う。でも当時は、1年半もかけて準備して光明が見えたところだったから本当に辛かったです。

– ワリバシの試行錯誤の間には、他の商品をつくっていたのですか。

門倉:内装材を製造したり、手探りで商品開発をしていました。ワリバシに代わる主力製品として、ユカハリ・タイルの原形ができたのが2011年の春でした。ちょうど東日本大震災の直前です。仮設住宅は寒いだろうと、2011年の冬に仮設住宅に、トラック何台分もタイルを送りました。まだ売り先がなかったからので、それなら…ということで。その頃から、ユカハリ・タイルとユカハリ・フローリングが商品に加わりました。特にタイルは、自分で簡単に敷けるし、森の学校の主力商品になりました。ワリバシも加えて三本柱といっていたんだけど、結局ワリバシは主力から退いて、ユカハリシリーズ2商品が二本柱になったけどね。
 


ユカハリ・タイルの製造工程。

– 工場の中を見学させてもらうと木材のバリエージョンも多いし、かなりの種類の商品があるように見えます。

門倉:商品数は限りないんです。お客さんの仕様に合わせてつくることも多いので。今も、カスタム仕様のものが30%くらいを占めます。厚みや長さを要求通りにつくって、ほしいといわれたものは、全部つくるのがベンチャー企業の当たり前です。仕事がなくて困っていたんだから、収益が上がるまではどんなものでもつくる意気込みでずっとやってきました。ただ、ユカハリシリーズという主力製品をきちんとつくったことは良かったです。それまではやみくもにいろんなものに手を出してたのを、生産効率を高めて合理的にものづくりをする方向へ変えていくことが必要でした。

– 主力ができたことで、収益は上がりましたか。

門倉:タイルの開発をするにも、最初は完成度も低かったので、採算のことより完成度を上げることを考えました。まずは商品を認めてもらわなくちゃいけない。丁寧なものづくりを心がけて、2年くらい経ってやっと認めてもらえるようになりました。国産材を積極的に使おうという時流もあって、ブームになりかけている予感はしています。国内の木材がちょっとずつ見直されていますよね。

– しかもユカハリ・タイルやユカハリ・フローリングは、DIYで使えるのが魅力です。

門倉:それぞれのユーザーが自分の想いで簡単に施工できる、自慢の商品です。お金をかけずにいい環境をつくって、自分へのごほうびにもなる。今、生産量が増えてきていて、将来的にはそれが飛躍的に伸びることもあるだろうと僕は思っています。まだまだユカハリの知名度が低いから、もっと広めていくことが必要です。良さって使った人じゃないと分からないから。僕の家族も神奈川で使っているんだけれど、設置したときに、空気が変わったんです。家族みんなが居心地のいい空間ができたと喜んでいます。
 


現在の製造所スタッフ達。

 

森林の再生と豊かな働き方、2つの社会貢献を目指す

門倉:国産の無垢材の良さをもっと多くの人に知ってもらいたいし、それが山の再生や地域の活性化につながっていけば、僕がここに来た目的、「社会貢献」も達成できます。「上質な田舎の暮らし」って言葉を最近よく聞くんだけど、都会でもまれて身を削りながら生きて来た人たちが、疲れきっている。さらに勝ち組と負け組がしっかり分かれてしまっている。そんな世の中で生きざるをえない30-35歳くらいの人が一番葛藤していると思うんです。彼らに、たとえば住む場所と働く場所があって、家族が過ごす時間がたっぷりある…そんな価値観で働く場所として製造所が位置づけられれば嬉しいです。まだ発展途上だけれど、女性が働きやすい環境を整えたり、ここの製造所自体の価値をきちんと上げていきたいです。

– 自然に囲まれて、いいものをつくる仕事の環境がここにはありますものね。

門倉:はい。この場所をよくしていくのはもちろんだけど、さっきいったように、飛躍的に国産材の需要が広まったときには、森の学校の製造所だけでは生産が間に合わなくなります。そのときに、木材の産地ごとに、うちみたいなものをつくれるOEMの工場が立ち上がってきたら嬉しい。独占する必要なんてなくて、うまく日本中を巻き込んで循環するのが本当だよね。それがユカハリ・タイルと同じかたちとは限らない。そこから派生するものを使って、もっと小さな規模の工場があってもいいのです。日本の森林の使い方、働き方、まだまだ可能性はたくさんあると思っています。