岡山県

西粟倉村

にしあわくら

「定住しなくていいんです」のアンサー ~西粟倉に飛び込み1年後村を出た、松原圭司という人生の冒険家の物語~

地元でもない、なんならこれまで縁もゆかりもなかったところなのに、ひょんなきっかけで知って興味が湧いて、なぜだか惹かれる地域はありませんか?
あの地域で暮らしや仕事を頑張ってみたいと思うけど、「あの地域も、この地域もいいな」や「移住はハードルが高い気がする」と迷ってしまう方も多いのではと思います。
今回の記事では、地域へ移住し暮らすこと、仕事をすることに興味があるけれど、まだ模索中の人へ、ある男性の物語をお届けします。西粟倉村でジビエ猟師をしていた松原圭司さん。村では老若男女を問わず「まっつん」と呼ばれています。彼が西粟倉にいたのはちょうど1年間。今は福岡県の山の上のレストラン「イビサ スモークレストラン」に勤めています。もう西粟倉にはいない、けれど、村では「まっつんって男がいてね」とよく話題にあがるその存在感。

松原さんをご紹介するのは、エーゼロ株式会社の金城です。私が移住したばかりの時、村のことを教えてくれた松原さん。私が西粟倉に移住して、松原さんが村を出るまでの4ヶ月間、仕事も村の事も松原さんにたくさん教えていただきました。
「定住しなくていいんです」と西粟倉村が打ち出したキャッチコピーに惹かれた松原さんに、改めて西粟倉で挑戦した日々と、今後どう生きていくのかを聞いてみました。

 

なぜ西粟倉に決めたのか。

松原:狩猟を田舎でやろうと思って、『起業 地域おこし協力隊』でネット検索したら『定住しなくていいんです』って出てきて。

2015年、京都で大学卒業後に、食肉利用に特化した捕獲と解体処理をおこなう猟師に弟子入りしていた松原さん。猟師として独立したいと、狩猟できる田舎を探していました。地域おこし協力隊という、都市部から田舎へ移住しその地域活性に繋がる事業をする人に国から補助金が出る制度、を活用して狩猟ができたらと「起業 地域おこし協力隊」で検索したのだそう。
一方、同年、西粟倉村は「定住しなくていいんです」と掲げて、西粟倉で挑戦するよそ者を募集していました。
いうなれば、松原さんがネットの検索欄に打ち込んだその検索結果が、西粟倉との初めての出会いだったのです。

-検索されたということは、他の地域のことも調べて、最終的に西粟倉に決められたのでしょうか?

松原:他の地域のことはそんなに調べていませんでした。なぜなら、地域おこし協力隊制度は、当時は役場付きで活動するのが一般的。自分のやりたいことで自由に起業できるという使い方は、当時他の地域ではほとんどやっていなかったから。「西粟倉ローカルベンチャースクール2015」にエントリーすることは即決でした。
何よりも『定住しなくていいんです』という、懐の深さに惹かれたんです。「ここならできるかも」と。

「自分にしかできないジビエ料理を提供する」西粟倉でのスタートと、挑戦の日々。

西粟倉ローカルベンチャースクール2015は3回の選考会を経て、採択か否かの審査がありました。通常、運営側が想定しているのは、採択されてから移住し活動が始まるパターン。しかし、松原さんは、選考会中から西粟倉に入りこんで活動を始めていたのです。

松原:地域で何かしたいと思ったら、まずはその地域に行ってみること、知ることが先だと思ったんです。だから、猟友会の会長さんや農家さん、村の人に会って話したりしていました。また、村で実際に狩猟もしていました。

選考会の始まったばかりの頃、「獣害対策」のプランを提示していた松原さんでしたが、リアルな西粟倉をその身で感じ、選考会でブラッシュアップも重ねた結果、「自分にしかできないジビエ料理の提供や、美味しいお肉を提供したい」という目標とプランに辿りつきました。そして無事、西粟倉ローカルベンチャースクール2015の採択者として認定、、!

2016年4月。松原さんは、晴れて起業型の地域おこし協力隊として、西粟倉村に移住しました。

-移住前からすでに動いていたまっつんさんが、移住して最初にされたことは何だったんですか?

松原:目指す先は、自分のお店を出すことだとして、「移住してすぐ一番最初に自分にできることは何か」と考えました。答えは、「獣肉解体処理場を作ること」。捨てられていたお肉を食べられるようにするということだったんです。もちろん、ゆくゆくはそのお肉を使って料理をすることも見据えて。

4月、森の学校ホールディングス株式会社(のちの、エーゼロ株式会社)と連携し、7月、旧影石小学校内に獣肉処理施設を完成。に完成。建築施工の依頼発注はもちろん、ご自分でも改装工事をおこない処理場をつくられたとのこと。移住して3ヶ月でやってしまうというのは、私にとっては驚きです、、!

-初めの一歩は、狩猟の方法を勉強することではなかったんですね。

松原:狩猟は、西粟倉に来る前に師匠に弟子入りをしたので、一応やり方はわかっていました。いま思い返してみればそもそも僕は料理がやりたくて、猟はそんなにやりたいと思っていなかったかもしれない。人が獲ってきてくれるならそれでいいと。でも西粟倉に来てからは面白いと思うようになり、獣肉処理場を建設しました。建設したからには、とにかく獣を獲って捌き続けてお肉をどんどん販売していかなきゃいけない。まずは獣肉販売のみで事業を成長させなければと思い込むようになっていってしまった。獲って捌くことを続ける中で何がしたいのかわからなくなってしまっていました。
秋になって、一度エーゼロの牧さん(代表取締役)と話をして、「一旦、エーゼロの獣肉処理は置いておいて、まっつんの好きなようにやったらいいんじゃないかな」と言ってもらったんです。その流れでエーゼロから少し離れて、「紅のジビエ」という自分の屋号をもつことになりました。でもその時も、たくさんとって、捌いて、肉の販売だけで生計を立てなきゃと思っていた。いくらとれるのか、いくら稼げるのか、スケールするのか。それを考えることでどんどん苦しくなった。けれど、事業である以上、それを考えて成り立たせなければ次には進めないと、自分に思い込ませようとしていたのかもしれません。

-聞いているだけで、ちょっと苦しくなってきました。。

松原:狩猟という行為について少し話すと、「命を奪う」ことは、ひどく暴力的で残虐的な行為だと思っています。いままで獣たちが繋いできた生命のつながりを突然に断ち切る行為ですから。狩猟を続けるためには、その罪を自分のなかに受け入れてその上で続けていくための「自己肯定感」が欠かせないと僕は思ってます。
で、気づいたんです。自分勝手に殺そうって。社会的正義のためじゃなく、誰かのためじゃなく、自分の勝手な都合で身勝手に殺そうって。でもその方がフェアで、気持ちがいい。俺が肉が食べたいから。食べて欲しい人がいるから。知り合いの畑を荒らされるのがムカつくから。だから殺す。そして食べる。
命を奪うという罪を犯し、その罪を受け入れて、それでも続けていく。それがたぶん、僕にとっての狩猟。そしてそれを続けていくためには「自己肯定感」が必要だった。

そして、獣を獲って捌き続ける日々で、自分がどこに向かいたいのか、向かっているのか分からなくなってしまった。狩猟を続けるための「自己肯定感」が薄れていってしまったんだと思います。
「こんな俺が何で生き物を殺すのか、申し訳ない。自分が望んで殺すならいいけど、迷っている状態で殺す」というのにストレスがかかった。
そういう状態のまま、寒く暗い冬になり、子持ちの雌鹿を捌いたんです。腹を割ったときにこぼれ落ちてきた胎児を見て、その時に本当に申し訳ないと思った。どうしてこんな俺が命を奪えるんだ、と。本当にやりたくない。殺したくない。そう思いました。
でも、それでも仕事だからと罠をしかけに山に入ったんです。だけど罠をしかけているときに「どうかお願いだから罠にかからないでくれ。かかってしまったら俺はお前たちを殺さなきゃいけない」と心から願っている自分に気が付いて。それに気づいた時、「何を考えてるんだ俺、意味が解らない」とハッとしたんです。

-それは生命に向き合うことを通じて、自分に向き合っておられたんですね。その結果、村を出る選択をしたのですね。

松原:そうです。狩猟をするといって村に来たのに、狩猟を続けられなくなったから。

-狩猟を辞めて村を出ることは、誰かに相談されていたんですか?

松原:この村で頼りにしている人たちにも相談をしていました。村を出ることを勧めれることは1度もなくて、いろんな人に引き止められました。狩猟以外にもいろんな仕事があるのだからと。でも、狩猟を続けないと決めて、都合よく村に残ろうと僕は思わない。そういう状態でいる方がもったいない。補助金も、自分の時間も、みんなの時間も。そう思いました。
村を出て場所も環境も変えないと、沈んでいる気持ちをぬぐいされないと思った。山や狩猟から離れようと、だから村を離れようと思いました。

 

「また、帰ってきます」

村を出ずにはいられないという心境。とはいえ、行先もやることも決まっていない状況で、松原さんはある日、「自分のやりたいことを片っ端からやってくことにした」と一言。その後、村を出て最初に向かったのは沖縄県久米島。そこでマリンスポーツのインストラクターを経験した後、「やっぱり料理の勉強をしたい」と、現職のイビサスモークレストランのスタッフとして住み込みで働きだしました。

-今はどんな仕事や暮らしをされているのですか?

松原:お店の離れのような山小屋に住み込みで働いています。地元の豚を使った自家製のスモークハムやソーセージや熟成生ハムを仕込んだり、自家製酵母のパンを大きな窯で薪をつかって焼いたりして、週末のお店で出しています。ごくまれに猟師さんがもってきた鹿や猪を捌いたりもしています。保健所の関係でそのお肉はお店では出せないんですけどね…。笑

-そうなんですね!なんだか山の暮らしは、まっつんさんらしさを感じます(笑)前のように、生命を殺す事の恐怖感はないのですか…?

松原:今は自己肯定感を持てているから大丈夫なんだと思う。気持ちを込めて捌いて、そのあとの加工や料理もできる。今なら自分でまた罠を仕掛けられるし、捌くこともできる。けれど、毎日ずっと捌き続けるというのは無理だと思う。そこには自分なりの肯定感を持てないから。

だから、これまでやってきたことが無駄だとは全くもって思っていないです。ローカルベンチャースクールで事業計画書を作成して発表したことや罠猟で鍛えた観察力は、業種が変わっても日々に確実に活きています。
たとえ何かから離れてしまっても、ちゃんと自分自身で向き合ってきたことは自分の中にしっかり残っている。だから次の場所でもどこに行こうが、再び強烈に出会うだろうと思えるんです。だから手放せる。自分に「大丈夫だよ」と思える。凝り固まって、たくさんのものを背負って、今まであったものをそぎ落とした中で残るものこそが、大切だと思っています。これからも。

その時々の自分と対話をして、自分の生き方や価値観で、次の1歩を選択する松原さん。 松原さんの生き様をここまで伺ってきて、「私は自分の人生どう生きたいんだろう」とまっつん節が私の中に刺さりまくりです。(笑)

松原さんがかつて西粟倉で過ごしたなかで何を得て、それが村を出たのちにどうそぎ落とされていったのか。私には、今の松原さんのもとには価値観も人間関係も大切なものばかりがちゃんと残っているように思えました。
最後に、今の松原さんにとって西粟倉という場所はどんな場所なのか、これから松原さんが何をするのか、伺ってみました。

松原:んー…どんな場所やろうね。
帰る場所の1つ、かな。自分がいたところ、お世話になった人、また会いたい人、今こういうことをしていると話したい人もいる。村出る時も、「またいつでも帰ってこい」ってみんなが言ってくれたのは本当に嬉しかった。俺も「また帰ってきます」って言ったもんね。
今後ですが、夏前には今の職場を辞めて無人島にいくつもりです。100日ほど。その先は、東京にいる予定。今までの田舎での積み重ねをあえて手放して、大都会にいくつもりです。
でも、西粟倉に行く可能性もあります。いつか山に自分の拠点を持ちたいので、その場所が西粟倉になる可能性はあると思う。でもそれはその時の流れで、もしかしたら日本じゃないかもしれない。
とりあえず西粟倉は、「また会いに行きたい人、会って話したい人がいる場所」です。

松原さんの生き方は文字通り、型破りな生き方だと思います。型を破るのはそう簡単ではない。だけれど、こんな生き方があること、地域への関わり方にそもそも型なんてなく、どんな関わり方でもいいこと。その人がその人らしく、楽しい時も、苦しい時も、真っ直ぐ在ること。その人が「またこの地域に関わっていたい」と思うこと。それが、地域との接点の始まりであり、継続であると思います。
あなたが地域の人に関われば、その人もあなたに関わる。その循環が、また来たい地域、その地域の人との関係性を作っていくのだと松原さんから感じます。
どうぞあなたも遠慮なく、気軽に、「ただ興味あるんです」という真っ直ぐな思いと共に、地域に足を運んでみてください。西粟倉はいつでもあなたが会いに来てくれるのを待っています。

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