鹿児島県

錦江町

きんこうちょう

仲間と一緒に楽しみながら前へ進む

晴れた朝、穏やかな錦江湾。港に停泊する船の横には、生け簀が浮かんでいる。坂下奈津子さんが船の男性に声をかけると、男性は生け簀の縁に足をかけ、網を差し入れた。すぐに、身の張った魚体が白い腹を光らせて網の中で勢いよく跳ねた。

坂下さんは、有限会社坂下水産の創業者の三男、坂下勝昭さんと結婚し、以来30年近く魚の仕事に携わっている。同社は沖にある生け簀でカンパチとヒラマサを養殖して県外へ出荷し、地元で直売所も経営している。

 

「港にある生け簀は、一時的に魚を入れておくためのもの。その日に必要な分だけを水揚げし、その場で血抜きをして加工場に運び、氷で締めて神経を抜いてから捌きます。それをすぐに店に並べるからすごく新鮮なんですよ」

 

男性が手際よく魚を扱う様子をうれしそうに見守りながら、坂下さんは話してくれた。


 

漁師の妻たちが営む直売所「ふる里館」

坂下さんの主な仕事場は、坂下水産が経営する直売所「ふる里館」だ。県外に出荷されることが多い養殖のカンパチ・ヒラマサを地元の人達にも食べてほしいという思いから、2008年に国道沿いにオープン。漁師の妻たちが中心になって店を営んでいる。

港の生け簀から水揚げされた魚は、店に隣接する加工場で処理された後、すぐに店頭に並ぶ。美しい身の色や見るからに張りのある肉質が鮮度を物語る。

「ふる里館」には、このカンパチ・ヒラマサの刺身、カマ、アラをはじめ、魚を使った手作り惣菜、地元産の野菜や郷土菓子などが並ぶ。

買い物かごに魚のカマを次々と入れている男性がいた。聞けば、プロの料理人だと言う。ここのは鮮度が抜群だから、と話してくれた。

 

「魚が苦手だというお子さんが、うちの刺身は美味しいと食べてくれたと聞いて、うれしかったですよ」

坂下水産の魚について、そして漁師や職人、店のスタッフについて話をするとき、坂下さんの言葉が力を帯びる。仲間の仕事や魚の品質について、自信と誇りを持っている様子が伝わってくる。

 

魚の惣菜というアイデアで課題解決

「ふる里館」オープン時から、坂下さんは経理などを担当し、店の運営に携わってきた。義理の父である先代の社長から、みんなでやろうと声がかかったものの、初めての事業に戸惑う人もいたようだ。しかし、坂下さんは不思議と「楽しそうだな」と思ったという。新しい世界に興味を持って飛び込んでみる、坂下さんの人柄が伝わるエピソードだ。

 

漁師の店とあって、新鮮な魚を求める客で初日から行列ができ、集客に苦労はなかった。一方で、親族経営で店の運営は皆が初めて。店づくり、組織づくりにおいて課題は山積みだった。次々と現れる壁に無我夢中で向き合う日々。

 

「うちの職人には鮮度にこだわりがあって、当日水揚げした魚しか刺身として店に出さないんですよ。売れ残ると廃棄になるから、余分には店に出さないようにする。そうすると、夕方には店頭に刺身がないという状況になってしまって、どうしたものか…と」

そこで、坂下さんたちは、店に刺身がいつも並ぶように、売れ残った場合は加工して惣菜にするから、と職人に提案する。2015年には女性スタッフと「さかしたキッチン」を結成し、商品開発・加工に乗り出した。アイデアを出し合い、残った刺身をすり身にしてメンチカツやお好み焼きに。アルバイトの高校生が考案した魚ぎょうざのレシピも「美味しいから使わせて!」と許可を取り、商品化した。

 

鮮度のよいカンパチ・ヒラマサを贅沢に使った惣菜は、手軽で味がよく、好評を得た。種類も豊富で、現代の食卓で敬遠されがちな魚料理もこれなら気軽に取り入れられそうだ。

「実際に惣菜にしてみたら、大型魚だから小骨がなくて安心だし、子どもも喜んで食べてくれるので魚食普及にも役立っているかな。高齢者の方にも喜んでもらえているみたいです。店の現実的な問題から始まったけれど、いい結果につながって良かったです」

 

この取り組みは、後に、社会課題の解決や地域・環境活動につながると評価され、坂下さんが「令和4年度 農山漁村女性活躍表彰」の水産庁長官賞を受賞するという快挙をもたらした。

 

人との出会いで世界が広がる

目の前に壁が現れたとき、坂下さんはそれを器用に乗り越えていくタイプ、ではないようだ。真正面からぶつかり、悩み、時には煮詰まることもある。しかし、何事にも真剣に向き合う人だからこそ、周りも放っておかない。坂下さんにはいつも人とのつながりがある。

 

「ありがたいことに、いつも誰かが助けてくれたり、アドバイスをくれたり、応援してくれる。周りの方々には感謝しかないです」

 

人との交流が広がっていったのは、「ふる里館」がスタートした頃に行政主催のイベントに参加したことがきっかけだと言う。その頃、悩みを抱えていたという坂下さん。「自分を変えたかったのかな」と振り返る。ここで、地元の人々をはじめ、地域おこし協力隊や他地域から出向してきた人材とのよい出会いに恵まれた。

「以前は、行政は町民のためにすることが当たり前って思っていたところもありました。出会った方々との交流を通じて、行政に期待しすぎない、頼りすぎないことが大切だということに気づきました。まずは一生懸命に自分の仕事を頑張る。そうすれば周りも行政もちゃんと応援してくれる」

 

出会いが人生の潮目を変えた。このとき知り合った人たちとは現在も縁が続いているという。

 

学びの場はたくさんある

外へ一歩を踏み出し、気づきや学びを得た坂下さん。研修会があれば参加し、勉強会があれば皆勤賞と、積極的に場に出て行くようになった。

 

「田舎にいても学ぶ場はいっぱいあります。オンラインという選択肢もあり、たくさんの情報をもらうこともできる。私はもっと勉強したい、というか、話を聞きたい…。1回聞いて分からなければ何回でも聞いて、1つでも自分のものにしていきたいんです」

その旺盛な意欲はどこからくるのだろう。そういえば、会話の中で「坂下水産があって、海があって、魚があるからこそ、私の活動ができている」という言葉を何度か聞いた。新しい知識を得て、刺激を受ける。それを持ち帰って本業に生かす、課題があるから学びも貪欲になる。すべてが、店に、魚に、海につながっていく。海に出る機会は多くはないが、漁業士、船舶士の資格を取得したのも仕事をより深く理解したいという想いもあったのかもしれない。

 

そして、知ったことや学んだことを周りの人たちのために役立てることはできないか、と考えて行動していくことも、人を思いやる坂下さんらしさなのだろう。

 

楽しみながら活動するその先に

やりたいことがいっぱいある、と目を輝かせる坂下さん。錦江町『MIRAI』づくりプロジェクトの一環として開催された研修会「小さなSDGsチャレンジ」に参加し、その場で、水産エコラベルの認証を取得すると宣言した。これは、水産資源の持続性と環境への配慮のある事業者を認証する制度で、厳しい基準があり、多額の投資も必要で、実現へのハードルはかなり高い。しかし、坂下さんはそれをあえて言葉にした。坂下水産に持ち帰ったところ、社長も必要性を認めてくれ、行政のコンサルティングなどのサポートも得られることになり、最終的に「MEL(メル)認証(*)」の取得にこぎつけた。

 

「やりたいと思うことを口にすることで、誰かが頭に留めておいてくれて、情報をくれたり、協力してくれたり…。おしゃべりするって、大事だなと思います」

本業に直接関わりはないものの、坂下さんが熱心にエールを送る取り組みもある。内之浦で未利用魚の活用を進める有限会社昌徳丸(しょうとくまる)の活動だ。同社は、定置網にかかる多種多様な魚が食べられずに廃棄されている現状を変えたいと積極的に情報発信し、商品化も行っている。

 

「海に関わる者として大事な問題だと思っていて、役に立つとは言えないけれど、私も関わっていきたいという想いです」

 

令和5年度に企画された大隅半島の食材を使った駅弁を開発するプロジェクトでは、「さかしたキッチン」のスタッフとともに未利用魚「ギンカガミ」を使った「笑顔まんてん錦笑ヒラマサ弁当と、恋するギンカガミ」(期間限定発売)を開発した。想い入れたっぷりのネーミングに坂下さんらしさがあふれている。

「社会貢献とか、地域のためにというすごいことを目指している訳じゃない、自分が楽しいから、やりたいからやっています。頑張っている人たちといっしょに活動するのがすごく楽しいし、幸せです」

 

実は表に出るのは苦手、と迷いを抱えながらも、取材を受けたり、小学校で講演したりすることも、仲間が丹精込めて育てたカンパチやヒラマサの美味しさを伝えたり、地域のために頑張っている人を応援したいという気持ちから。大切なもの、大切な人たちのことを知ってほしい、そんな想いが坂下さんを動かしていると感じた。

「錦江町が帰ってきたくなる所になったらいいなと思います。私たちがここで楽しんでいれば、若い人もいつかは町に帰って来たいと思ってもらえるんじゃないかな。だから、自分の心に無理なく、楽しんでいろいろな活動を続けていけたらと思います」

 

どこに行くにも身に付けているという赤いポロシャツ。肩にプリントされた「錦江壱番」のマークは、インターンで来た台湾の学生が考えたデザインだ。人への想い、町や仕事への想い。坂下さんはそれをエネルギーに、楽しみながら前へ進んでいく。

 

(*)MEL認証:水産資源や生態系などの環境にやさしい方法で行われている漁業や養殖業を認証する仕組み。