「地域をあきらめない」。商工会青年部のリーダーが 北海道胆振東部地震を機に確信したこと。

1月20日の「あつま国際雪上3本引き大会」を皮切りに、「厚真町復興イベント」(1月27日)、「スターフェスタ・ランタン祭り」(2月2日)と、3週連続でまちを挙げての大型イベントが行われた厚真町。
そのすべてに、裏方として汗を流す厚真町商工会青年部の姿がありました。
「僕らはまちの実動部隊ですから」と笑うのは部長の金谷泰央さん。北海道胆振東部地震を経て、まちの未来を担う青年部のリーダーとしていま何を思うのか。お話を聞きました。

 

いつだって、まちの「最前線」に。

-まず、商工会青年部とは、地域にとってどのような存在なのでしょうか。

金谷:商工会青年部は商工会の下部組織の一つで、親や自分が会社・店舗を経営している45歳までのメンバーが加入しています。青年部の存在は、簡単にいうとまちの盛り上げ役です。都市部に比べて「ヒト・モノ・カネ」のすべてが有利ではない中で、地域に「ヒト・モノ・カネ」を集めて循環させるための活動を行っています。その一つがイベント運営です。たとえば毎年6月に実施する「田舎まつり」や、2月の「スターフェスタ」は商工会青年部の主要な活動です。
それぞれが本業を持ちながら同時に商工会青年部の活動に従事し、厚真という地域の「最前線」で動いている。そのことを、今回の地震で改めて痛感しました。
土木関連の会社を経営している部員は地震直後から重機を動かして土砂崩れの現場に入りました。消防団に携わる部員は土砂崩れの現場で救助作業を行いました。また、商店を営む部員は水道も止まったままの状態で我先にと店を開け、生活インフラの復旧に努めました。どの部員もそれぞれが地域の最前線で奮闘していました。

金谷泰央さん。株式会社金谷造園代表取締役。2017年に第20代青年部部長に就任しました

-金谷さんご自身は地震のとき、どうされていたのですか。

金谷:地震の前日、9月5日未明に台風21号が北海道の西を通過し、道内全域に停電や農作物被害が出ました。うちは造園業ですから、5日の深夜から町内や札幌の現場へ駆けつけ、倒木処理に当たっていました。クタクタになって帰宅したのが夕方6時。7時には既に寝ていたと思います。
深夜3時に地震の衝撃で目が覚め、すぐに会社に飛んできました。扉を開けたらぐっちゃぐちゃ。パソコンもコピー機も何もかもが床に転がっていました。片付ける間もなく消防団の招集がかかり、それからは救助作業の傍ら、並行して商工会で行う炊き出しを手伝いました。発災から3日間は、自宅に着替えと仮眠のために帰るだけでほぼ出っ放しでしたね。

-救助作業のまさに最前線にいらっしゃったんですね。

金谷:自衛隊、警察、消防、そこに地元の消防団も加わって夜通しで救助作業を行ったのですが、……なにもできなかったですね。なんにも……。
僕らの任務はスコップで土砂を掻き出すことでした。最初に重機で土砂を除け、畳や布団が見つかった時点で手掘りに切り替えるのです。作業に入る前は、絶対に自分の手で助けると意気込んでいました。ところがいざ土砂崩れの現場に立ち、「掘ってください」と指示が出た瞬間、目の前の土にスコップを刺すことができないんです。申し訳ない話ですが、よく知る人がここにいるかもしれないと思ったら、刺せないんです。
そのときの感覚はいまも忘れられません。
最後の安否不明者が見つかるまで、救助現場と炊き出しテントの往復が続きました。そのうちに道内各地の商工会青年部から救援物資が届き始めました。「何が必要?」「現地で足りないモノは?」「どんな状況?」。そういった連絡がひっきりなしに僕の携帯に入ってきて、受け入れ対応でバタバタでしたね。その忙しさが目の前の現実を忘れさせてくれました。

全道の商工会青年部組織からたくさんの救援物資が届きました

金谷:北は稚内、東は釧路から、連日青年部の仲間たちがトラックで救援物資を届けてくれました。水、食料、おむつ、生理用品…。届いた物資は安平町の仲間が経営する店舗にいったん集めたのですが、本当にものすごい量になりました。Facebookで随時情報を発信して必要としている方に配布したところ、1週間あまりですべてなくなりました。全道の仲間の迅速な行動、これは本当に助かりました。感謝してもしきれません。

 

「日常」を取り戻したい。

-年が明けてからのイベントラッシュは、相当大変だったんじゃないですか。

金谷:地震のあとしばらく、補助金の申請関連を除いて商工会青年部としての活動はほとんど停止状態でした。自粛ムードもあって動こうにも動けなかったというのが正直なところです。
とはいえ地震直後に商工会理事の吉住先生から復興イベントの提案があり、実行に向けて水面下で動いていました。開催日が1月27日に決まり、毎年恒例の「あつま国際雪上3本引き大会」(1月20日)と青年部主催の「スターフェスタ」(2月2日)に挟まれる格好になりました。さらに今年は1月14日に札幌ドームでの「ほっかいどう大運動会」が予定されていたので、それも含めると実に4週連続でイベント運営に関わることになってしまったんです。しかも携わるメンバーはほとんど一緒です。だから打合せをしていても、途中でどのイベントの話をしているのか、自分たちも分からなくなってくる。その花火の話って、「復興イベント」だっけ?「スターフェスタ」だっけ?みたいな。

-復興イベントではステージの総合司会も担当されていましたね。

金谷:貴重な体験をさせてもらいました。テレビで観るお笑い芸人さんとトークでからんだり、司会をしながら次の演者さんを呼びに走ったり。ステージの台本も作ったんですけど、ハプニング続きで最後までバタバタ。大変ではあったけれど、やって良かったと思います。5000人に満たないまちで5000人を集めたというのは、本当にすごいことだと思うんです。

翌週の「スターフェスタ」は震災後だからといってあえて特別なことをせず、いつも通り実施しました。
「復興イベント」は、吉住実行委員長の言葉を借りれば、起きてしまった非日常を乗り越えるために良い意味での非日常を作ろうと始めたイベントです。その一方でみんなの心の中には“あたりまえの毎日”を一日も早く取り戻したいという気持ちがあります。だから「スターフェスタ」は“いつもと同じ”である必要があったんです。いつもと同じ時期に、いつもと同じ場所で、いつもと同じことをやる。同じことができるというメッセージを、みんなに発信したかったんです。

一斗缶に仕込んだ薪に火を灯す恒例の「巨大干支文字焼き」。準備にも余念がありません

「スターフェスタ」当日は、約500個の一斗缶で作られた巨大干支文字焼きと2000発の打ち上げ花火が冬の夜を彩りました

-まもなく新年度を迎えます。

金谷:そうですね。商工会青年部として気がかりなのは6月の「あつま田舎まつり(以下「田舎まつり」)」です。「田舎まつり」は従来、表町公園を会場に実施してきました。現在は同じ場所に仮設住宅が設置されているので、「いつもと同じ場所」というわけにはいきません。場所を変えて実施することになるとは思いますが、果たして同じ規模で開催できるのか。それとも縮小することになるのか。青年部としては「田舎まつり」が1年で最も大きな収入源でもあるので規模縮小となれば資金面での心配もありますが、何よりまちの人にとって6月のあの時期に「あの感じ」がないというのは寂しいし、不安にもなるでしょう。祭りはやっぱりまちの象徴ですから。そういう意味でも、次の「田舎まつり」は一つの試金石になろうかと思います。

前夜祭・本祭の2日間で計2万5000人を集客する「田舎まつり」。屋外でジンギスカンを楽しむ「草原焼き」が名物となっています

僕らが地域をあきらめたら……。

-北海道胆振東部地震を経て、商工会青年部はこれからどうあるべきだと考えますか。

金谷:「田舎まつり」のように直近の課題も多々ありますが、長い目で見たとき、僕らの世代がどう次世代へバトンタッチしていくか、会社でいえば事業継承していくのかというのは大きな課題です。これはもちろん人口減少のこの時代、日本中の地方が抱える課題ではありますが。
僕は38歳(1981年生まれ)ですが、この世代はまだある程度のボリュームがあります。でも、これから先はどんどん若手が減り、考えるだけでゾッとするような状況が待ち受けています。いま何とかしなければ先細りするばかりです。先日、商工会青年部の全国大会で聞いた言葉が印象的でした。「僕らが地域をあきらめたら、地域は死んでしまう」と。グサッと胸に刺さりました。本当に、そうなんです。

「スターフェスタ」のひとコマ。金谷さん(一番左)と商工会青年部のみなさんの目に映るものは…

-そのために、いま取り組むことはなんでしょうか。

金谷:一つは後継ぎの問題です。後継者がいる町内事業者に対しては、見過ごすことなく声をかけ、仲間として支援したい。
もう一つは町の外から来てくれる人。厚真町は町外からの移住や起業を施策として進めていますが、僕らとしても厚真に来たいと思っている人たちを歓迎し、積極的に仲間として迎え入れたいと考えています。青年部の部員はそれぞれが会社の重要なポジションにいて、横のつながりも強いので、「町内でこういうことができる場所はないか?」「こんなことができる人や会社はないか?」と探している人がいれば、すぐにつなぐことができる。青年部をそうやって使ってほしいと思います。

-金谷さんが次世代を「迎え入れたい」と思うのは、ご自身の経験とも重なるわけですか?

金谷:そうですね。それは大いにあります。僕は東京の大学に進学し、そのまま東京で広告代理店に就職しました。就職2年目、ようやく仕事が面白くなってきたときに親父が急死しました。翌年厚真に帰ってきましたが、そのときは正直、「本当に何もないまちだな」と思ったものです。コンビニも、飲食店も、遊ぶ場所も少ない。東京での暮らしとのギャップはたしかにありました。それでも僕には知っている人が多くいた。うちの作業員さんも、自分が子どもの頃にかわいがってくれたおっちゃん、おばちゃんがそのまま残っていて、「おぉ、帰ってきたか」と迎えてくれました。だから違和感なく戻ってこられたんです。親父が死んだために経営のことを教えられる人間が社内にはいませんでした。そのときに助けてくれたのが商工会の仲間でした。決算書の見方を教えてくれたのも商工会の先輩です。商工会があったから、すぐに地域に溶け込むことができました。
東京の便利さも知っています。でも、なぜここに留まるのかといえば、やっぱり生まれたまちだからなんだと思います。愛着がある。それに尽きます。もうね、好きとか嫌いとかじゃなく、ここで生きていくと決めたわけですから。
大げさなことを言うつもりはないけれど、このまちのために生きたい。死ぬまでこのまちにいたい。地震が起きたことで、その気持ちはさらに強くなりました。いま改めて、そう思うんです。


取材中、印象的だったのが金谷さんのこの言葉でした。
「造園の仕事はなくても誰も死なない。でも、なければ景観が損なわれてまちが死んでしまいます。青年部も同じ。この活動がなくてもまちは回る。でも、僕らが動かなければ、まちは活力を失って死んでしまうでしょう」。
「死ぬ」という強い言葉に、金谷さんの覚悟がにじみます。
厚真町のイベントに参加したら、その姿を探してみてください。きっとステージ裏や本部テント奥の「最前線」で、金谷さんをはじめ青年部のみなさんが奔走しているはずです。

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