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自分の枠を取っ払ってこそ、見出した 「つなぎ役」という生き方(後編)

表舞台に出ることなく、プロジェクトの裏側で人や地域をつなぎ続ける山倉さん。後編は、プロジェクトを前に進めるために大切にしていることやプランニングディレクターの道に進んだきっかけ、子育てしながら好きな仕事を続けるコツなど、その活躍の裏側へと踏み込みます。

前編:変化を続ける新潟の裏側にある 「つなぎ役」という存在

 

“嵐を起こす女”を買って出る心意気

どんなプロジェクトもきれいごとばかりでは前に進まない。だからこそ、山倉さんはどんなに厳しい意見も、思いを持って伝えることを大切にしています。

「何かが起きるときは誰かが悪く見えないといけない場面があったり、自ら変化を起こさないと物事が動かない時がある。でもそれってすごくプラスなことだと思っていて。地域で“嵐を起こす女”と言われることもあるんですが、嵐が起きた後には必ず変化が起こるし、そうしないと出てこない言葉がある。私はそれを引き出す役回りなのかもしれませんね」

山倉さんのプロジェクトの関わり方にはもう一つ特徴があります。それは商品や場所が完成すれば終わりではなく、その後も変わらずにサポートを続けていくところです。

 

「そら野テラス」で販売されているはちみつ草野の商品。山倉さんのプロデュースによるもの。

「何かが完成した後に、それを育もうとする人は少ないと思うんですが、私は逐一アーカイブに残すし、広報も担当するし、その後のことも全部やるんです。『そういうことも含めて担当させてほしい』と依頼主の方々に伝えます。そうすることで必ず次につながるし、成果や実績が見えてくると、関わる人たちの自信につながって心がバラバラにならない。そこから次のアクションが生まれて、またそこに関わりたいと思えるんです」

山倉さんが果たす役割の大きさを改めて実感します。なぜパティシエだった山倉さんが、こうした活動を始めることになったのでしょうか。

「つくるのは大好きなので、料理人として『料理をしたい』という意識は今もありますが、周りの料理人が伝えることが得意ではなかったんです。とってもいいことを考えてたり、すごく熱い想いを持っていたりするのにもったいない!ならば、私が言葉にしてあげたいと思ったんです。それも、すごく素敵な料理人が周りにいたからこそ。料理人の環境と価値向上のために、料理をつくること以外に自分の特性を生かしてやるべきことがあると思いました。それがプランナーという仕事だったんです」」

熱い思いと豊かな感性を持ちながら、それを言葉にはせず、あくまで作品で示す料理人たち。そのため、思いや考えがなかなか伝わらず、共感や憧れが得られにくい場面もあります。山倉さんがパティシエから、プランナーという役割にシフトした大きな転換点には、彼らとの出会い、そして職人気質な側面を持つ外食産業の未来への懸念があったのです。

 

東京で何者でもない自分が、地域では名前を持てる

中学高校と、運動部で県選抜選手だった山倉さん。怪我によって目標を見失った時、「食べるものには絶対的な力がある」と感じて料理の道に進み、19歳でドイツ菓子のパティシエとして修行を始めました。

 

「働き始めて3年目のある日、修行先のシェフにこんなことを言われたんです。『この先、女性がパティシエとして働き続けることは難しいと思う時が来るかもしれない。お菓子と一生一緒にいたいなら、今から自分で働き方を見つけなさい』と。たしかにパティシエは過酷な仕事で、結婚や子育てとの両立は難しい。その言葉が外に出てみるきっかけになりました」

23歳でフリーランスのパティシエとして独立。24歳で東京に出て、「IDEE」の飲食部門や創作和菓子店「HIGASHIYA」に所属しながら腕を磨きます。しかし、それだけでは収まらないのが山倉さんらしさ。「せっかく東京に出たのでいろんなことをしてみよう」と、耳鼻科の受付、おもちゃの販売員、テレフォンオペレーターなど合計13もの仕事に挑戦しました。こうした経験は、「この先何があっても、働き手として何らかの形で必要とされ、生きていけるかもしれない」という自信につながります。

「そんなことができたのも、私は東京では何者でもなかったから。料理人としてのしがらみもなかったし、すごく楽でした。逆に地域のすごいところは、誰でも名前が持てるところ。東京でただただストイックに孤独と真正面から向き合い、もがきながらも前に進んできた経験があったからこそ、新潟に戻って名前を持とう、自ら型にはめてしまわずに、必要とされること、自分でやれることを表に発信しようと思えるようになりました」

パティシエというプレイヤーとして、何かを創作し続けるよりも、自分の生まれた町で料理人が生き生きと活躍できるフィールドや仕組みをつくりたいーー。そうやって自分の枠を広げて考えることができたのも、東京で料理やお菓子以外のたくさんの経験を経て、自分自身を深く見つめることができたからこそ。また新潟に戻り、地域という枠の中に改めて身を置いたことで、自分自身を俯瞰し、「どういう役割の自分に価値があるのか」を考えることができたのでしょう。すべては修行先のシェフに言われた、「自分で働き方を見つけなさい」という言葉が起点になっています。

 

ケータリングチーム結成後、予期せず「公務員」に転身

28歳で新潟に戻った山倉さんは、結婚・出産を経て、さらなる転機に遭遇。それが妹に結婚式のプロデュースを頼まれたことでした。生後6ヶ月の赤子を抱えながら企画や調整に奔走。その時、新潟にはフードケータリングができる洋食の料理人がいないことに気づき、妹に紹介してもらったのが、のちに「DAIDOCO」をともに結成することになる熊倉誠之助さんでした。すでに出張料理人として活動していた熊倉さんとは、会ったその日に意気投合し、「新潟でケータリングのパイオニアになる」ことを密かな目標に活動をスタートします。

「東京から新潟に帰ってきたときに、海、山、公園、どこにも人がいないなと思ったんです。もっと自由にいろんなことができるはずなのに、誰にも使われていなくて、なぜ誰も何もやっていないんだろうなと。そこでまずは自分たちが、使われていない場所にケータリングで食空間をつくることを始めたのです」

最初は個人宅からの依頼がほとんどでしたが、キッチンカーでいろいろな場所を訪れ、食の空間を提供する「シェアキッチン」プロジェクトなど、ケータリングにとどまらず、活動の範囲はどんどん広がっていきます。

ところが、「DAIDOCO」の活動が前に進み始めた2011年4月、山倉さんは新潟市の任期付き職員となり、予期せず「公務員」として働き始めます。一体何があったのでしょうか。

「新潟市が食のプロを募集していると聞いて、気になったので応募したら受かってしまって。『水と土の芸術祭』』という取り組みのフード部門の企画や広報、デザインなどに専門職として携わりました。行政の人たちが日々どんな思いと立ち位置でまちづくりに関わっているのかを知る機会にもなったし、自分が行政の立場になることで、市民が行政マンをどう見ているかも知ることができました。この経験は自分にとってすごく大きかったですね」

任期が終了したのは2013年1月。「ここまでが私にとっての修行期間。ここから本当にやらないといけないことが見えてきた」と言います。当時は実績がなく、声をかけてくれる人もいませんでしたが、小さいながらもやってきたことや自分の考えをまとめたプレゼン資料を携え、一人で動き始めたことが今につながっています。

好奇心の羽を広げて興味があるところに臆せず飛び込み、自分の力に変えていく。いくつものハードルを明るく乗り越え、今の自分にたどり着いた山倉さんの生き方は、自分の枠にとらわれず、多様な経験を積み重ねることの大切さを教えてくれます。

 

二拠点生活をしながらも、子育ては地方にこだわる理由

さらに今年4月からは、クリエイターが集まる複合施設「渋谷キャスト」の13階にある、“新たなライフスタイルの実験”をテーマにしたコレクティブハウス「Cift」の住人となり、新潟と東京の二拠点生活をスタート。ここには19世帯、約40人が入居し、その職業や拠点、生活スタイルも多種多様。入居にあたっては運営側が活動のコンセプトに共感する人材を選抜し、山倉さんは子育て世代で食や農業に関わるクリエイターという枠組みで選ばれました。

「地域という括りがどんどんなくなって多様化する中で、自分が何をやっていくべきかを考えると、新潟で生活しているだけでは変化や成長は望めないなと思ったんです。住む場所やライフスタイルもさまざまな人たちと関わって、家族のように接することで視野が広がり、場所や暮らしの垣根がなくなった時に初めて、自分らしい暮らし、場所、未来が見えきたような気がします。とはいえ、やっていることはこれまでと変わらず、自分の幅を少しずつ広げているだけ。東京に出てきたという感覚はないんです」

子育てしながらの二拠点生活。にわかに信じられませんが、どのようにやりくりしているのでしょうか。

 

小学2年生になる娘さんと。

「子どもはいろんな大人の愛情を受けながら育つことが私の理想。なので、結婚と同時に義理の両親との同居を受け入れました。『自分は母である前に、この家の一人の大人』という意識に立って、家族だけでなく、関係する地域も含めて、みんなで子どもを育ててもらえるような環境づくりを心がけてきました。人に甘えることは苦手なのですが、子育てに関しては周りに甘えて、積極的にお願いするようにしています。夫や義理の両親、実家の両親、姉妹の家族、親戚、そして友人たちの協力を得て、子育てをしながら仕事を続けられる今の環境にとても感謝しています」

義理の両親だけでなく、時には、少し離れた場所で暮らす自分の両親に子どもを預けたりと、周りにたくさんの協力者がいることが、山倉さんの強みでもあります。二拠点生活を通して、都内での子育ての背景も見える中、「地方だからこそできる、子育てと好きな仕事を両立した今のスタイルは、自分の身の丈にあっている」と日々実感しているそうです。

「待機児童が少ないので預ける場所がたくさんあって、いろんな大人と関わりながら育てられる環境もある。あと地方で子育てする一番のよさは、子どもに本物を見せられること。地方にはリアルがたくさんあって、誰かがつくっているから自分が食べているということを意識しながら生活できるんです。これってとても豊かだと思います。そしてなにより、娘には働く私の楽しそうな姿、生きることに夢中になっている様子を見ていてほしいですね。『大丈夫。子どもは親の背中を見ているから』と、周りの人たちにも言ってもらうことも多いのですが、いいところだけでなく、ダメなところや悩んでいるところも、どんどん見せていきたいと思っています」

 

志をともにする仲間と一緒に活動する、次のステージへ

新潟と東京を縦横無尽に走り続ける山倉さん。同じく今年4月、県内で食・ものづくり・観光などをテーマに活動する4人のメンバーと、まちづくり会社「Sync board」を新たに設立し、代表取締役に就任しました。設立の発起人は山倉さん。これまで一人で動いていた個人が集まり、会社組織にすることで、窓口を明確にし、「まちづくりに関わりたいと思っているさまざまな立場の人たちと、意識を共有し、気軽に相談してもらえるようにしたい」という思いがあります。一人ではなく、志をともにする仲間と一緒に活動するという次のステージに突入したと言えるでしょう。「やらなきゃいけないことや未来への宿題がありすぎて、一生のうちに終わるかな?」という言葉に、山倉さんらしいポジティブな力を感じます。

 

「Sync board」のメンバーと。この日はものづくりに携わる武田修美さんが欠席。5人はみな地域で活躍する30代の子育て世代。

「『一生のうちに終わるかな?』というのは、まちづくりにそれだけ問題点があるということ。一過性のものばかりに目を向けていては、まちは衰退してしまうのかもしれない。なので、足元に目を向け、地域で継承できるサステナブルな取り組みにもっと関わっていきたい。人、もの、場所も新たに何かをつくるというより、今あるものの価値を見出していく取り組みを加速していきたいですね」

「食は人間の基本であり、食は絶対になくならない」と直感して選んだ食のプロの道。ただストイックにその道を突き進むだけでなく、時に立ち止まり、悩みながら、湧き起こる好奇心や興味に対して素直に行動することで、パティシエ、ケータリング、飲食業、まちづくり、広報と仕事の幅はどんどん広がっていきました。

そんな中、“食はまちを形成する大きな要素”だと気づき、地域や人を束ねながら、食を楽しむ仕組みをつくる「つなぎ役」という役割に自ら価値を見出せたからこそ、今の彼女があるのです。山倉さん自身の変化や成長とともに、関わる地域の価値や可能性も高まっていくーー。彼女の笑顔を見ていると、そんな期待感はどこまでも膨らんでいきます。