岡山県

西粟倉

にしあわくら

「不安だらけのときもものづくりを地道に続けたから、今がある」創業メンバーの石井大樹さん(取締役・工場長)が振り返る「木の里工房 木薫」のこれまで。

西粟倉村のローカルベンチャーのトップランナーとして、2006年に創業した「木の里工房 木薫(もっくん)」。林業経営と工房経営が一体化した会社で、現在は村内の本社のほか東京や大阪にも営業所をもち、幅広く活動しています。この「木の里工房 木薫」の創業時から取締役に就任し、代表取締役の“右腕”として会社を大きく育ててきたのが、木工加工部の工場長・石井大樹(だいき)さんです。会社をどう支え続けてきたのか、石井さんが見つめる先には何があるのか——。石井さんの想いをお聞きしました。

石井さんの働く木薫の工房

西粟倉村にIターンをし、その後独立する

— 石井さんは以前、大阪でお仕事をしていたと聞きました。

石井:はい、兵庫県で生まれ、大阪でスーパーの店員をしていました。でも、27歳のときに「子育てをするなら田舎でしたいな」と思うようになったんです。今は48歳ですから、21年前に。そこで四国を中心に移住先を探し回りましたが、当時は今ほどIターンやUターンなどの移住者が多くなかったので、「田舎暮らし=仕事がない」という問題にぶち当たりました。

田舎は山村のほうが圧倒的に多い。山村といえば林業や農業ですが、農業は元手が要るし、林業かな……と。鳥取県・智頭町の森林組合にたまたま行ったとき、「西粟倉ってとこに移住したら家がもらえるらしいで」と聞いたんです。当時はけっこうそういう村が実際にあったんですよ、全国的に。「あぁ、ほな、西粟倉もそうなんや」って思って、ダメ元で西粟倉村の森林組合に直接電話してみました。

そしたら山のほうの仕事は募集してないんやけど、森林組合が木工をしている工場をもっていて、「今だったらそこで募集している」とお聞きして、「仕事があるならぜひ!」と決断しました。そんなふうに偶然が重なって、1997年にこの村へやって来たんです。結局、「家がもらえるらしい」という噂は嘘で、もらえなかったんですけど(笑)。

— そうなんですね(笑)。始めたのはどういうお仕事だったんですか?

石井:おじいさんやおばあさんたちを中心に8人くらいが働いている工場での木工です。昔の方たちなので、特におじいさんはいろんなことができるんですよね。教えていただきながら、杉や檜の下駄や家具など、村の特産品をつくりました。

つくるのは楽しかったです。お客さんとも距離が近く、自分がつくったものに対するお客さんの評価も見れたので、喜んでもらえたらますます楽しい。自分の腕が上がっていくのが分かることも楽しかったですね。

— ずっと木工のお仕事をされてきたんですね。

石井:実はその後、その木工の工場は赤字で閉鎖になったんです。僕以外のスタッフはみなさん辞めてしまいました。僕は森林組合のなかにあった別の工場に異動し、大きな丸太から、公共の土木工事などの材料に使う直径サイズの決まった丸太をつくる仕事を2年ほど経験しました。ちなみに、この工場で当時上司だったのが、その後共に「木の里工房 木薫」を立ち上げる代表取締役の國里哲也です。彼は当時、毎晩遅くまで共に残業する仲でもありました。

僕はある程度いろんな家具がつくれるようになっていたので、そのうち「自分のやりたい仕事がしたいな」と考えるようになって。一時期は「田舎暮らしをやめて実家に帰ろうか」と思い、就職活動もしていたんです。

ちょうどその頃、村内は合併する・しないで議論が交わされている時期でした。村の人たちに「辞めるつもりなんです」と話したら、村の特産物としてある程度認知されていた家具の作り手がみんないなくなってしまうので、少し困った感じで「ちょっと帰るのは待って」と言われました。それで「それやったら、自分でしようかな」と、2003年ごろ一人で独立しました。独立というとかっこいいですけど、村や森林組合に援助していただいて「やっていこうかな」って感じで。

森林組合や今までのお客さんから家具づくりのお仕事をいただいて、2年半ほど活動しました。でも、営業と制作の両立がなかなか大変で……。営業をすると制作ができなくなるし、制作ができなくなると収入がなくなったり。

 

同じ想いをもつメンバーと会社を設立

— そうしたジレンマを抱えていたことが、「木の里工房 木薫」につながっていくんでしょうか。

石井:そうなんです。僕は家具づくりを中心にやっていたから、会社の出口の部分は担当できる。國里は営業をずっとやっていたので、僕ができないような営業力がある。創立メンバー6人の内の5人は、森林組合と関わりがあったメンバーで、山の現状についてだいたい同じような認識をもっていました。それぞれ持ち場と得意分野があるから、一つの組織になることによって道筋が見えてくるんですよね。自分のやっていたことに力を発揮するだけで組織が回る仕組みが描けたので「ほんならやろうや!」という話になりました。

國里さん(右)と、常々会社のことを語り合っている石井さん

僕は子どもの頃から、「自分はトップに立つタイプじゃないな」と感じていたんです。ナンバー2のポジションのほうが向いているなと。だから國里の社長就任はまさに適任だと思いましたね。僕はサポーターに徹しようと。

(参考:國里哲也さんを取材した、創業にまつわる記事はこちら。)

創立した当時は「木でできるものなら何でもしよう」っていうスタンスで、店舗什器なども行っていました。でも、薄利多売でなかなかむずかしくて……。はじめの頃って会社は小っちゃいし、とにかく不安しかなかったんで「それでも仕事がないよりは」っていう感じだったんです。

— 最初は不安だったんですか?

石井:たぶん、みんな不安やったと思いますよ。寄り集まって仕事を始めたはいいけど、どうなっていくんやろう、と。大っきな仕事をいただいてみんなでワーッて喜んだのに、蓋を開けたら赤字、ってこともありました。初めてだから、やりようも分かんないじゃないですか? でも、やらなきゃいけない。

お互いがそんな感じで「とにかく頑張んなきゃ」という気負いが大きすぎて、僕もピリピリしていたし、いらんところで衝突もしましたね。当時の僕はストレートなもの言いが多く、反感を買っていたと思います。

大変なことがあっても、創立メンバーは変わらずそのまま会社に居続けました。僕は身寄りも何にもない村に来ていて、子どもが2人いましたし、辞めるなんて、絶対そんなこと言えなかった。そのうち、いい意味で田舎の社会性に慣れ、こういう言い方・やり方をしたほうがスムーズにいくなと分かってきて、気負わなくなりました。

— 主力商品ができたのはいつ頃ですか?

「木の里工房 木薫」を立ち上げてから1、2年してからです。見込んでいた仕事がリーマンショックの影響でパタンとなくなるっていう事件がきっかけでした。次の年明けてからの仕事が、一切ないという状態です。

そのとき、会社としての軸を「森から子どもの笑顔まで」にしようとみんなで話し合いました。國里の頭には、創業時から「子どもに檜や杉の良さを知ってもらいたい」というイメージがあったのですが、そこをメインにできていなかったんですね。だから「原点回帰をしよう!」と。

保育園さんから遊具発注の再依頼をいただける案件が少しつくれていたので「そこに注力しよう!」と決めました。保育園は大阪だけでも何百園とあるので、みんなで手分けして片っ端から営業の電話をかけたんです。僕も、したこともなかったですけど、一日だけやりました。そういったところから地道に活動を始め、受注していったんです。

 

うちは、みんなで集まってつくりあげている会社

— 石井さんのお立場ならではの大変さもあったのではないですか。

石井:営業は國里がメインで、スタッフみんなが食べていくだけの仕事量を取ってこなきゃいけない。それも大変な仕事です。一方で仕事を取ってこれたら、そこからは僕の担当。「その仕事取れたんや、すごいな。うちら頑張ってつくるわ!」って。

でも、少ない人数で現場を回してつくっていかなきゃいけないし、つくったものには責任をもたなきゃいけない。僕しかつくれる人がいなくて若いスタッフがまだ主戦力にはならない時期だったので、頼れる人がいない状況で何とか回さなきゃいけないしんどさはありましたね。

納期が決まっているなかで、どうやっていこうか、四苦八苦しました。とにかく時間を使うしかない。20、21時くらいまで残業していました。やってもやっても終わらない。あれはしんどかったですね。

今はスタッフが増え、現場を若手にまかせているので、僕のやりがいは、一つの仕事が上手く回って終わった達成感や、利益が出た喜び、部下の成長を感じる嬉しさなどに変わっていっています。

— 経営について、國里さんに何か進言されることはあるんですか?

石井:しますよ。今も2、3ヶ月に1回くらい幹部会をやっていて、方向性や現在の課題について話し合うんです。そのときには僕だけじゃなくて、若いメンバーも「いやいや、そんなんダメでしょう」とか話していますね。うちは、ワンマンな社長にみんながついていくタイプの会社ではなく、みんなで集まってつくりあげている会社なんです。そういうことを言いやすい雰囲気があります。

揉めたこともないんです。「どないかしよう(どうにかしよう)」っていう前向きな考えがあっての意見の衝突は何回もありましたけど、お互いがそっぽ向いてる揉め方じゃない。お互いの持ち場があるっていう認識がそれぞれにあるのが大きいと思いますね。

 

僕たちのつくるものは、消えるもんじゃない

— 前向きな考えがあってこそ進めるのだと思います。石井さんはそのお立場で、今どのような夢や目標をもっているのですか?

石井:うちの製品は岡山の県南や東京にも広がっています。それって子どもを送り出すようなイメージなんです。自分たちがつくったものがそこにある、と思うと何だか嬉しくって。そういうのが増えれば増えるほど、楽しいですよね。学生時代の友達などに「あそこの保育園行ったらウチらの遊具があるで」と言える、そんな場所がもっと増えたら嬉しいです。

家具や遊具は残るものなんでね。僕たちのつくるものは、消えるもんじゃないんです。「木の里工房 木薫」のなかでは僕が一番年上で、最初に定年を迎えます。それまでに、どんだけそういう景色が見れるかな、と考えています。

会社の経営については、創業して10年、やってこれました。これから20、30年続けてほしいです。そのためにスタッフを増やしたいし、今いる部下もしっかり育てたい。僕は幹部としてそれをサポートしたいと思っています。村で最初にできたベンチャー企業ですから、商品のクオリティを担保して、村の基幹産業としてやっていきたいと思います。

 

「株式会社木の里工房 木薫」

住所

〒707-0504
岡山県英田郡西粟倉村長尾739-5

ホームページ

https://www.mokkun.co.jp/
https://www.facebook.com/mokkun.nisiawakura/

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