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「私たち、まだまだ負けていませんよ」厚真町を開拓したのも、ハスカップを育ててきたのも、生きるため

「機械なんて何もなかったし、だいたい鍬なんて知らない。スコップひとつで、ここに入ったのよ」。そんな風に語るのは、今年95歳になる佐久間シゲ子さん。厚真町の、開拓民のひとりです。シゲ子さんが子どもたちと少しずつ耕した土地は、今は厚真町の特産品であるハスカップの畑となり、娘さんたちもハスカップ栽培を継いでいます。のどかに見える畑の裏側には、「生きていくために」という女性たちの強い思いがありました。開拓時代の話からハスカップ農家になってからの話まで、シゲ子さんと、その長女・美紀子さんのストーリーをお届けします。
 

3歳の子どもを連れて、スコップで荒れ地を開拓

– 佐久間シゲ子さんのお孫さんである山口農園5代目・善紀さんに、先日インタビューさせていただいたんです(母の想いを受け継ぎ、おいしいハスカップで厚真町を日本一に)。その時、お母さまの美紀子さん、おばあさまのシゲ子さんが開拓されてきた話も聞かせていただきました。今日は、昔の北海道、昔の厚真の話が聞かせていただけたらなと思っています。

今はハスカップ農園をされていますが、昔は佐久間家では酪農をされていたんですよね。シゲ子さんは、厚真町の初期の開拓民だと聞いています。どんな経緯で、厚真町に来られることになったのでしょう。

シゲ子:実家はここより西に100キロくらい先にある、壮瞥町というところ。10代の時にね、ゴンドラやロープウェイのワイヤー管理の技手をやってた旦那と結婚したの。んだけど、ちょうど終戦と同時に、そういう仕事がどんどんなくなっちゃった。

それで、厚真に姉がいて、「土地を分けてもらえるから、ここに来なさい」と言われて。終戦後、兵隊だった人たちが帰ってきてもいれるところも仕事もないもんだから、荒地を開拓地として分け与えるよって、国が言うもんだから。それに乗ったんです。わたし22歳、長男3歳、あと旦那の3人で思い切って厚真町に入った。兄弟たちには、「やったこともないことを」って止められたけど。

– それで、新しく酪農をはじめられた。ご実家でも、牛の飼育をされていたんですか。

シゲ子:実家は飲食店をしてました。だからもうね、農家のことなんて、本当に何も知らないの。牛を飼うことにしたのはね、旦那に牛乳のましてやりたかったから。 旦那は体が弱かったから、毎日牛乳飲ませたらいいのかなって思ったのよね。私は牛乳大嫌いなんだけど(笑)。

‐ そういう理由だったんですね(笑) 私、開拓って当時の光景があまりイメージつかないんです。道具とか、持って入ったんですか。
 


 
シゲ子:今みたいに土地が広がっていないっていうか、荒地しかない。機械なんて何もなかったし、だいたい鍬なんて知らないからね。スコップひとつで、土地に入ったのよ。根っこがいっぱいあって、ものも植えられないでしょう。いきなり土を掘り上げることもできないから、冬になったら木を切って、その切り株がしばらくたつと腐ってくる。腐りだした切り株を堀りあげる時には、娘たちにも手伝ってもらったり。本当に何もなくて、少しずつ土地を作るところからやっていった。本当の開拓者だったね。

でもその土地も、火山灰のやせた土地で、なんにも採れないところだった。だから牛をやったんです。農地がなくっても、木と木の間でも、牛は飼えるでしょう?姉が牛屋さんだったのもあって、最初に1頭だけ飼ったの。あとは、「子牛が生まれたら返すから、牛貸して」って。乳を搾って売れば生活はできたしね。一番飼っている時は12−13頭くらいの牛がいたと思うよ。

‐ 娘さんたちにも、牛の世話を結構手伝ってもらったりしたんでしょうか?

シゲ子:そう。搾る機械なんかももちろんないから、全部手搾り。牛が乳腺炎にならないように、毎朝学校行く前に、娘たちに30リットルの缶に搾ってもらって。それから学校まで片道4キロくらい歩いていくっていう。冬場は、家の壁や窓に隙間が有るもんだから、朝起きたら自分が寝てる布団の上に雪があったり、川の上を滑って学校にいったりね。ほんとうに子ども達には、苦労をかけましたねえ。
 

食べていくのが大変で、生きるためにハスカップを始めた

- ハスカップとの出会いはいつ頃なのですか。
シゲ子:家のまわり、そのへんにいっぱい生えていたんですよ。生まれ育った壮瞥町にはなかったから、厚真に来てから、はじめて見た。先に厚真に入っていた知り合いが、「健康にいいんだぞ」って教えてくれて、生で食べてましたね。あとは塩漬け。

美紀子:今はハスカップはお店に売っていますけど、私が嫁に出るまでは、家で食べるだけでしたよ。からだにいいからって、おにぎりの中身は、梅干しでなくて塩漬けのハスカップ。でも、酸っぱくて苦くて、私は嫌いだったんですよ。

– 美紀子さんは、いつごろからハスカップ栽培を始められたんですか。

美紀子:20歳でお見合い結婚して、30歳くらいからハスカップを育て始めましたね。嫁入りした家では、稲作と畜産をやっていたんです。子どもの頃から牛の世話の手伝いが嫌で、酪農なんてやりたくないと思っていたのに、また牛(笑)。でも、田んぼは3町(3ha)ほどしかなかったし、和牛も仔牛を産ませては売っていたんですが、自分の子どもも産まれて、食べていくのが大変で。

そのうち主人は会社勤めに出るようになったんですね。その頃から私一人で農作業を回さなきゃならなくなって、ハスカップをやるようになったんです。実家の両親(シゲ子さんたち)に、「健康にもいいし、この先きっと売れるから、ハスカップやりなさい」と言われたのもあって。牛もいるし大変だったけど、それはもう、生きていくためにね。

はじめは自生しているものを採ってきて、田んぼの畦とかふちに植えてました。翌年は別のところからまた木を採ってきて植えて。1980年に入ったら、苫小牧のハスカップの自生場所が土地開発でつぶされることになって。それで当時他の100軒くらいの家といっしょに、ハスカップの木を厚真に運んできて。両親もそれに加わって、3年がかりで3,000本ほどの木を持ってきました。そのうちの1,000本は、山口農園で育てることにしたんです。

‐ その頃は、お菓子・よいとまけの材料として、結構高く買ってもらえたと聞きました。

美紀子:そうそう、キロ4,000円とかね。でも、栽培をやめていく人も多かったです。結構、好き嫌いがある作業なんですよ。1粒ずつ、つまみとっていくんですけど、ちまちましているし、嫌いな人は嫌いなのかな。近所でも2、3軒を残して、みんな辞めてしまって。
 

自分なりに目標を立てないと、夢がない

- 生きるためとはいえ、ハスカップをここまで甘く、厚真町の特産品として育ててこられた。なかなかできることではないですよね。

美紀子:育てたものを食べてみたら、苦くて苦くて。こんなことでは、いずれハスカップから人が離れていくと思ったし、何より自分が満足いかなくなってしまったんです。それで、なんとかして美味しいものにならないかと思って。

– 「母さん(美紀子さん)は、苦い実のなる木はとにかく畑から抜いて、燃やしていたんです」と、息子の善紀さんからも伺いました。
 


 
美紀子:毎年毎年、袋をかぶせてみたり、挿し木に変えたり、いろいろやって、でも全然ダメで。種から育てると実をつけるのに5年はかかるんですけど、甘いかなと思った種を蒔いてみて。やっと育ったものでも、苦いものは抜くんですよ。そうやって種から2,000本は作った。よその人は、育て方とかを誰かに聞いたりしてたと思うんですけど、私はただただ自分の頭で考えて、自分流でやってました。

7、8年くらいが経っても、ハスカップの実はまだちっちゃくて、それほど量は採れませんでした。最初はハスカップの受け手は役場だったんですが、その頃から農協に変わって、担当者だったのが今は集落アドバイザーをされている、元JA職員の南部さん。初めの頃は、ゴミさえ混入していなければいいくらいの感じだったんですけど、だんだんすごく厳しく言ってくるようになったんです。

– 厳しく、ですか。どんなことを?

美紀子:今年は出来がいいなと思っても「去年の方がもっと大きかった」とかって、すごいプレッシャーをかけられた。いやもう怖かったですよ。人にお土産にする時なんかには、うちの農園のハスカップを使ってくれてたんですけどね。東京に持っていくときなんかは「少しでもやわらかい実はだめだ」とか、「ほろ苦い実は、残留農薬と間違えられるからだめだ」とか。持っていく度に何かしら言われて、いつもしょげて帰ってきていましたよ。

あと、農家は、年頭の段階で「今年はこれくらいの量のハスカップを出荷します」という計画を農協に出さなくてはいけないんです。その時点で、収穫すべき目標数字を決められてしまう。それもものすごく嫌だった。でも、だったら自分なりにそれ以上の目標を立てて、どんどん粒を大きくしよう、たくさん収穫しようって思うようになりました。じゃないと、夢がなかったんですよね。
 

(写真左から、美紀子さんの息子・善紀さん、シゲ子さん、美紀子さん、元JA職員の南部さん)
 

まだまだ現役。誰にも負けていませんよ

‐ お話を聞いていると、美紀子さんは「とことんつきつめる方」ですよね。目の前の課題を超えよう、上回ろうというエネルギーがすごいというか。

美紀子:そうかもしれませんね。収穫期間は6月末からの30-40日なんですけど、自分でノルマをかけて。朝4時から8時くらいまで働いて、1日40キロから50キロほど採ることもあって。そうしないと、自分1人で1カ月で1トン近くは採れませんからねえ。

‐ お1人で1トン。大粒のハスカップでも、1粒って指の第一関節くらいの大きさですよね。機械でなく手摘みで…、気が遠くなるような収穫量ですね。

シゲ子:ほんとね、この人の真似はできない。あたしらなんかは焦って2つか3つ取っちゃう。すると、どうしても傷つくんですよね。この人は本当に1粒1粒採っていくし、早くてきれいです。

美紀子:ハスカップの収穫時期は、未だに友達にも人が変わると言われます。没頭してしまって、友達なんかが遊びにきても「何しにきた!」って顔をするらしくて。「その時期には美紀ちゃんのところは行かない方がいいよ」って、今でも言われます。来客も全部断りますよ(笑)

– 今回お話を聞かせていただくのが、収穫期以外でよかったです(笑)。 けれど、そうした真剣さが、品種登録にもつながっていったんですね。

美紀子:ほんとうに自分流でやっていただけなんですけどね。品種登録の実際の手続きとかはよくわからなくて、息子がやってくれましたし。私がずっと作ってきたものは「あつまみらい」として登録されて、母が育ててきたハスカップは「ゆうしげ」という名になりました。ゆうしげの「しげ」は、シゲ子の「シゲ」なんです。「ゆう」は、父の名前から。

母は7年くらい前まで、ゆうしげの栽培を続けていたけれど、今は年齢もあって辞めてしまいました。母の育ててきたハスカップは、今は兄や妹が摘んでいます。私たち、三人姉妹なんですけど、末っ子の妹は厚真にいて自分で栽培しているし、真ん中の妹にいたっては、札幌から通って育てて収穫しています。それに兄は観光農園をメインにやっています。

– 「ゆうしげ」を作られていたシゲ子さん、「あつまみらい」を育ててきた美紀子さんだけでなく、姉妹のお2人も、今もハスカップ作りに関わられているんですね。

美紀子:ハスカップ農家が100件ほどある中で、個人の収穫量は私たち姉妹が、トップ5に入っていると思いますよ。私もまだまだ現役で、自分の畑を持ってやっています。誰にも負けていませんよ。今はもう新しい品種づくりとかまではしていないんですけれども、既にある品種を美味しく、たくさん量が採れるように工夫はしていて。未だに、雨の日も休まずに収穫しますしね。

シゲ子:他のところはほとんど畑の管理作業を手作業でやるのをやめたけど、うちの娘たちは堆肥撒きや草取りなどほんとに手作業。大変なのにがんばってると思います。

ん収穫しようって思うようになりました。じゃないと、夢がなかったんですよね。
 


 美紀子:基本は、とにかく生活のため、自分達が生きるためにハスカップを作ってきているんです。「大きい粒がほしい」って言われたから、生きるためにとにかく必死で作っていた。だから、ハスカップは好き嫌いとかではなくて、必要なもの。これを辞めるときは、全部終わりのときです。とにかく今は、こうやって生きていられることに感謝してる。何回も嫌になったけども、今を思えば続けてきてよかったと思いますね。

– 息子の善紀さんが、山口農園の品種を他の農園さんに展開したり、クレープなどの新商品を作ったりと新たな挑戦をされていますが、どんな風に感じられていますか。
 


 
美紀子:「厚真ってどこにあるの」と聞かれたときに、ハスカップの場所というのでわかってもらえるようになると、嬉しいですよね。厚真と苫小牧ではハスカップも認知されているけど、札幌までいくとまだなかなか。でも全国のセイコーマートで厚真産のハスカップを使ったアイスクリームが発売され始めたり、夢はあるかなって思います。私は私で精一杯生きたし、あんまり子どもにどうこう言うつもりはなくて、息子は息子でいいんじゃないかな。

土地を開拓してきたシゲ子さんと、ハスカップを作ってきた美紀子さん。そんな親子に共通するのは、生きるためにひたむきに、という姿勢なのかもしれません。

ハスカップファーム山口農園
http://www.hasukappu.com/

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