助産師・猪田敦子さんが1500人の村で目指す「地域だから、私だから出来るケア」

大学病院、産院、と経験を積んだ助産師である猪田敦子(いのだ のぶこ)さんが西粟倉村に来られたのは2年前の2018年5月。
こちらの記事で書いた猪田有弥さんの奥様でもあります。
敦子さんも旦那様と同じように、自らの事業を立ち上げる為に西粟倉ローカルライフラボで起業立ち上げ支援を受けながら起業に向けて学び、実践されてきました。
そして一度は落ちてしまった起業家として支援を受ける選考会に、今年1月に通過され、この春からは1人の起業家として活動を始められます。

この2年間は助産師という専門職で医療の世界で力を尽くしてきたからこそ悩んだことも多かったと言います。
敦子さんが地域で自分だから出来ることを探し、本当にやりたいことに向けて歩んだ2年間の試行錯誤を伺いました。

 

暖冬の中、久しぶりに降った雪の日に村の助産師・猪田敦子さんのご自宅にお邪魔しました。伺うと、暖かなお部屋であたたかな笑顔の敦子さんが待っていてくれていました。

-今日はどうぞよろしくおねがいします。

 

敦子:こちらこそよろしくお願いします。なんだか緊張しますね。

 

-いえいえ、緊張されずそのままの敦子さんのお話を聞かせてください。
早速ですが、村に来られる前のことを伺わせてください。
どのような経緯や想いで村に来ることを決意されたのでしょうか?

 

敦子:私はずっと関東で助産師をやっていました。総合病院や産院で働き、およそ600人くらいのお産をとりあげ、沢山のお母さんたちと接してきました。病院が担っている大切な役目も素晴らしさも感じていましたが、いつか地域に行きたいと思っていました。

また、大阪で暮らす義父が亡くなってからは1人になった義母のために西日本の方に住まいを移したほうがいいとも考えていました。

夫を通じて起業家支援プログラム「西粟倉ローカルライフラボ(以下:西粟倉LLL)」を知りましたが、東京を離れることは、ずっと関東で暮らしてきた私にとって友人や仕事仲間、色々な繋がりを切ることに思えたし、それはとても体力も気力も要ることでした。考え出すと行けない理由はたくさん出てくる、時間が経つと踏み切れないと思ったのでもう、「えいっ!」と思い切って行くことを決めました。
そして、西粟倉LLLのエントリー締め切り直前に夫と共に急いで書類を整えました。

 

-そうなんですね、それはとても勇気のいることだったと思います。
東京にいた時に思われていた、地域でやりたいことはどんなことだったんでしょうか?

 

敦子:病院に居たらお母さんたちには点でしか関われないんです。外来で会った一瞬、お産の一瞬、産後の一瞬。点でしか関われないことがもどかしくて、線で関わる事ができたらもっといいケア出来る、それをやりたいと思っていました。

無事お産を終えるとお母さんは退院していきます。子育て楽しんでねと言って見送りますが、心配な方もいました。
そんな方も地域に入り線で繋がって、継続して見守っていきたいと思いました。
点で関わるにしても、話をじっくり聞いて関わりたい、色々勉強していることを活かす場面も作りたいと思っていました。

 

-個人に合わせて線で関わっていきたいと思われたのは何かきっかけはありますか?

 

敦子:私の産前体操教室に通ってくださる方や、妊娠中に長期入院されていた方に呼吸の仕方やお産に向けて色々とお話することがありました。そのお母さんたちが出産後に「自分のペースで息をしていきんだら何かに導かれるように産めた!」とか「全然辛くないお産だった」と言ってもらえ、少し線での関わりができたことを嬉しく思っていました。

あと、きっかけと言うか、思い出深い方もいます。
一人目を妊娠された時に外来で関わったお母さんで、その方は妊娠も育児にも否定的でした。自分の体の変化にも戸惑い、産まれても「授乳したくない」と言って、私は心配な気持ちでその方の退院を見送りました。
しかし、数年後に二人目の妊娠で病院に来ていた彼女は、元気いっぱいのやんちゃな女の子を連れていて、とてもたくましいお母さんになっていました。
その変化にはとても驚いて、ああ、この元気な女の子がお母さんにしたんだなと嬉しかったのと同時に、どうしてその過程が見れなかったんだー!見たかったーー!と強く思いました。

 

―村に来られてそろそろ2年となりますが、地域でやりたいと思われていたことをされてきたのだろうと思います。どんな日々でしたか?

 

敦子:この2年間は色々と、チャレンジをさせてもらって、実際にやりたいことをやるのはこれからだと思っています。
そしてこの2年間では、「やりたいこと」に向けて大事なことをいくつも知ることができました。
その中でも、お母さんたちの普段の姿を知れたことはとても大きいことでした。

東京にいた頃、お母さんたちが健診で病院に来られる時は「私、異常はないですよ」という顔で来ているように見え、肩に力を入れて緊張しているようにも感じました。
普段の様子はもっと違うのだろうなと思いながら関わっていました。
それが、村の中では、お母さんの日常の姿や、普段の生活の延長で妊娠や出産、育児の日々を見ることができました。
そして、私は情報を提供しつつ、お家やつどいの広場にお邪魔したりして考えていることも聞かせてもらっていました。
お母さんの日々を見て、同時に子どもたちの成長も見させて頂いたのはとても貴重な時間でした。

気がつけば、長い方は二年間のお付き合いになるので、少しずつ点が線に繋がってきている感じがしています。
地域で必要とされているケアは、これまで病院で行ってきたケアとは違うことが改めてとてもよくわかりました。

村の赤ちゃん、お母さんと

 

―そのケアとは、具体的にはどういうものでしょう?

 

敦子:それは、やはり個人に合わせたケアです。
この2年間でより一人ひとりが違うことを実感したので、個人に合わせたケアがやっぱり必要だと思いました。

病院ではお母さん全員に赤ちゃんのこと、授乳のこと、沐浴、退院後の生活を必ず伝えていきます。その上でお一人お一人に合わせてケアしたり指導していくのですが、じっくり話を聞く時間さえもないのが現状でした。医療者がよいと思ってお話したことが合わず、逆に苦しい思いをしている方もいらっしゃると知りました。

大きな病院で何か新しいケアを始めようとすると様々な過程を踏まなければならず、とても時間がかかったりします。
私一人であれば、自分の責任において新しいことにチャレンジすることが出来ます。一人ひとりに合ったケアにつなげて行けると思っています。

 

-ご自身で学ばれ体得されてきた得意な分野、好きな分野はありますか?
これは特に自信を持って提供したいと思うようなケアなどがあれば教えて下さい。

 

敦子:産後のケア、授乳のことなどはもちろんですが、妊娠中の準備に関するケアも得意です。
準備とは、お産・産後に向かうまでの体と心、生活全てに関係することです。
でも、世の中はその準備の部分は関心がおかれていないと感じています。今は妊娠中も忙しい方が多いですしね。

病院で先生が診るのは1人5分~10分くらいのとても短い時間。健診では赤ちゃんの成長と母体に異常がないかどうかは最低限チェックしています。
ですが、親になることや、産むと体や心がどうなるかについては特に言いません。
その部分は両親学級で聞くことも出来ますが、一般的な説明だけではピンと来ないこともあると思います。
お母さん自身は、なんとかなると楽天的に思われたりもするのでしょう。

お産の経験は育児やその後の人生に影響すると思っています。
長く、お産の痛みや辛さを抱えてしまう方もいれば、お産が楽しいと言う方もいる。この差はなんだろうと思います。どうしたら楽しさにたどり着けるのかまだ探っています。でも、もし大変な辛いお産であっても、温かい感覚が心に残る、そんな幸せなお産を経験して頂きたいと思っています。身体の中の花が開くような感覚、イメージでお産を迎えられることを目指しています。

これからいよいよ出来るのではと思っています。

お母さんの家族の方へのケアもしたいです。
家族のケアは、まずはパパ向けのものを考えています。

お腹の中で変化する赤ちゃんの感覚はお母さん自身でも実はわかりづらい方もいますし、パパは尚更です。感覚の無さや、パパの気持ちの置いてきぼりのケアも必要なんです。
両親学級にパパも参加されたりもしますが、お母さんが大変だよということを伝えることに注力されていたり、沐浴等の練習をすることが多かったりします。
親になることで変化する関係性を支えるプログラム。これは海外には既にありますが、こういうものを何回かやっていきたいです。

完璧な親なんていませんし、完璧な育児もありません。
パーフェクトは無いことを知り、その家族なりの妊娠期の過ごし方や、出産の迎え方、子育ての仕方を見つける手助けがればと思います。
少し前の日本では親戚家族が近くにいて、こうしたらいいとか、子どもを見る目が複数ありましたが、今は核家族も多く、近所の繋がりも薄いので、頭で考える「親」や「子育て」を求めてしまう傾向があると思います。

あとお産をどこか近隣の病院で取りたいと思っています。やっぱりお産が好きです。
お産の瞬間はお母さんと赤ちゃんの命がかかっているから、無事産まれてくるよう見守り、時には助ける仕事で、とても緊張します。究極に緊迫した状態から一気に安堵に切り替わる瞬間。
命が生まれたその場は幸せに包まれます。いつも一緒にいさせてもらってありがとうございますという気持ちになります。

 

―敦子さんがお産をどこか近隣の病院で取られる事となり、もしその病院で村のお母さんが出産をすることが出来たら、まさに妊娠から出産、産後の子育てまで線で繋がりますね。そうなればとても楽しみです。
西粟倉での日々についてもう少し聞かせてください。1年目はどんなふうに過ごされていましたか?

 

敦子:1年目は妊娠した方がこの村にしては多くて、妊婦さん本人や保健福祉課、つどいの広場を通じて様々なケアをさせてもらいました。
パパクラスを開催したり、個別にパパにお話したりこれまで行ったことのないことを実施しました。

のぶこさんが村の地域子育て支援拠点「つどいの広場『Bambi』」と協力して開催したベビーマッサージの会

1年目はボランティアで、気負いなくケアしていました。
10月に起業家として支援を受ける審査会が迫ってきましたが、まだ村に来て5ヶ月で、ケアを試してた時期で事業計画を全く考えられませんでした。
結果、通過せず、その時は村には助産師必要ないと言われたようにも感じました。
その時は「ここで私は何をする人だろう」「どこに向かっていたんだろう」と立ち止まってしまい、苦しかったです。
村の暮らし自体にもまた慣れていない頃でした。
働き詰めの日々から、周りからアドバイスを頂きながらも、一から自分で仕事を組み立てていく日々に、心も生活リズムも馴染むのは難しかったですね。

西粟倉1年目、西粟倉LLLでの日々

 

―そこからまたもう1年やってみようと思われた気持ちも伺わせてください。

 

敦子:苦しい中でしたが、落ちたからここを離れることは考えてはいませんでした。
これから出産を控えた妊婦さんが何人かいたので、その方たちがお母さんになる姿や産まれてくる子どもたちを見たくて、そしてお母さんたちを見守りたいと残ること決め、申請し通していただきました。

 

-そこから2年目はどのように過ごされていましたか?

 

敦子:まず5月に「出張型助産所」を立ち上げました。
これは、乳房ケアを依頼されることが多かったので、賠償責任保険に入るためでもありました。
そこから、西粟倉LLLでの研修では「稼いでいくことに集中しよう」ということを言われるようになり、さらに苦しくなりました。
これまで医療制度の中からお金をもらっていたのが個人からもらうことに変わることは、とても大きな変化で難しかったです。
ボランティアであれば、どんどんと動けたのが対価をもらおうとすると戸惑いや悩むことが多くどう動けばいいかわからなくなる時もありました。
今も対価をもらうことはまだ少ないですが、継続してケアの依頼してくれている方もいます。育児が楽しいと思えるきっかけをつくれたこと、それはとても嬉しくケアに価値を感じてもらっていることに感謝しています。
対価をもらうことは、今自分の自信にも繋がっていっています。
これからは村だけでなく村外にも出てケアを提供していきたいです。
プライバシーに関わる話もあるので、近すぎて話しにくいようなことがあったり、人手が必要であれば近隣の助産師たちと繋がって助け合えれればと思っています。

 

―なるほど、対価をもらう難しさとも向き合ってきた中で選考会を通過されたんですね。私も嬉しいです。今はどんな気持ちですか?

 

敦子:ドキドキしています。
これからについては、必ずこうでなければならないとガチガチに固めてしまうと、進めなくなることがあるので臨機応変にバランスを保ちながらやりたいと思っています。
楽観的だったり、シビアに考えたり、未来を見たり、少し先や今現在のことを考えたり、バランス感覚を大切にしていければ自分の目指す方向に行けると思っています。
でも実はまだ少しモヤモヤしています。
健康に関することは人の不安を煽ってお客を募るやり方も目にしますが、それはしたくないんです。サービスの表現、見せ方はどうしたらいいか考えています。

 

-敦子さんが目指す方向とはどんなものでしょうか?

 

敦子:自分の人生を楽しみ、自分らしさを発揮できる、それを見て子どももニコニコのびのびと成長していく世界です。
「家族」の中で特に自分が技術や知識を持っているのはお母さんと赤ちゃんのケアになりますが、それを通じて家族の成長を見守っていきたいです。

そこに向けて、ケアを続け、どこかでお産も取りながら頑張っていきたいです。

 

―ありがとうございました、これからの敦子さんの活躍、そして敦子さんに見守られるお母さんや子どもたちの笑顔がとても楽しみです。

 

 

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