岡山県

西粟倉

にしあわくら

持続可能な村のために、弱者の仕事と暮らしをつくる

西粟倉村役場に勤めて、村のこれまでをつぶさに見てきた大橋平治さん。役場を早期退職して取り組んだのは、雇用対策協議会として移住者を募ることでした。「仕事と住居」のふたつが揃ってはじめて暮らしは成り立ちますが、これらの条件を整えるのは予想以上に難しいこと。大橋さんは役場と協力しながら、西粟倉に新しい風を吹き込むことに大きく貢献してきました。そして、今新たに取り組むのは、村で生まれ、ここで暮らしていきたい障がい者たちが仕事をし、共に暮らせる仕組みをつくること。移住者に光が当てられる中、これまで日陰にあった弱者の仕事や暮らしについて、「誰もやらないなら自分がやる」と立ち上がりました。挑戦は始まったばかり。息子と2人3脚で、真に豊かな村づくりの一端を担っています。

 

村をあげての移住者誘致

– はじめにお聞きしたいのが、西粟倉が移住者を呼び込もうとし始めた頃のこと。村内では、どんな動きがあったのでしょうか。その頃は大橋さんは役場の職員だったのですか。

大橋:私は平成20年の3月に役場を早期退職したんですが、その1年前に「雇用対策協議会」が立ち上がっていました。もともとは単独事業じゃなくて、総務省や厚労省の事業を取り入れながら始まったことです。移住者を西粟倉に呼ぶ目的は2つありました。ひとつは、新しい視点を入れること。村内に従来からいる人は気づかないけれども、違った視点で見るから発見できる村の資源があるだろう、と。もうひとつは、売る人をつくること。従来から農林業と関わる「西粟倉のものづくり」をいろいろやってきたんだけれど、売る人がいなかった。だからどれも長続きしなかったという問題意識が前村長にあって、「売る」技術がある人がいれば、ものづくりも発展していくだろうと考えたんです。

– 2つの問題意識が明確にあったんですね。それらの問題は、どこの「田舎」にも共通することな気がします。

大橋:そうですね。もうひとつ、過疎の問題もあります。平成の大合併のときに、村は合併せずに「西粟倉村」のままいくと決断しました。と同時に、過疎の問題にどう取り組んでいくか突きつけられた。ある程度人口がいないと村を維持できないですから。その問題も含めた3つが重なって、雇用対策協議会を立ち上げた背景がありました。

– 大橋さんは、その雇用対策協議会のメンバーだったのですか。

大橋:はい。本当は、早期退職して農業をやるつもりだったんだけど、あてにしていた人がダメになってしまって、総務課長だった自分が職員になるしかなかったんです(笑)。職員は自分と事務の人の2人だけだし、何でもやらなくちゃいけない仕事でした。

– 具体的にどういう仕事をしていたんですか。

大橋:平成22年度まで丸3年の事業だったんですが、厚労省の仕組みを使いながら、都市に向けて雇用の求人発信する仕事が主でした。西粟倉村内の事業者も連れて東京や大阪に行き、求人をするんです。Iターン、Uターン、新規就農希望者に向けて事業所がそれぞれPRして、その場で一時面接まですることもありました。移住を伴うわけなので、3ヶ月ほど試験雇用をやってみたり、仕事が合うか合わないか、地域が合うか合わないかということを見る期間をもうけることも多かったです。特に家族連れの場合など、地域や仕事が合わなくてすぐダメになる、なんて大変なことですから。

2013年4月に東京で行った募集説明会の告知パンフレット

– 実際にその説明会を経て移住した人は、何人くらいいるんですか。

大橋:説明会を経て来た人だけじゃないんだけど、私が雇用対策協議会に関わっていた3年間の間には20数家族、40数人が移住して来たんじゃなかったかな。例えば、平成19年9月の最初の説明会では4人採用して、移住して来ましたね。翌年からは、年に2回開催したりしていました。1年目はまだ西粟倉・森の学校(以下、森の学校)もできていなくて、木薫ができたくらいの年。平成20、21、22年には森の学校の立ち上げに際しての求人も平行してやっていました。

– その後も移住者は増えていると思うのですが、そのだいたいの数字って分かりますか。

大橋:雇用対策協議会が立ち上がってから今までの約7年で、70人くらいですね(森の学校調べ)。村内初のベンチャー企業といわれる木薫以降、個人事業主も入れて、ローカルベンチャーは12社ほど立ち上がっています。

人口が約1,500人の村と考えると、やはり勢いを感じる数字ですね。

 

仕事と住居、村に住むにはどちらも必要

– 仕事はあったとして、住む場所を用意するのも大橋さんの仕事だったんですか。

大橋:住むところがないと、どうにもならんもんね。当時の役場の担当者と協働して古民家なんかを見つけて、仕事と住むところとセットで募集をかけないといけない。「仕事はありますよ。住むところは自分で探してください」では誰も来れない。西粟倉で求めているのは、定年退職してスローライフを求めている人じゃなくて、仕事ありきで移住を考えている人たちだから。

– そういう移住者を求めるときに、仕事を用意するのと、家を用意するのと、どちらが大変でしたか。

大橋:うーん。私にとっては住宅の方が難しかったですね。例えば会社が人を募集して採用された人が来て、仮住まいしてもらうこともありました。「医師住宅」と呼んでいるお医者さんが住んでいた建物にとりあえずごそっと入ってもらったりしてたな。そこには代々いろんな人が住んでいました。そこに移住者がいる間に、家を急いで工事することが結構ありました。県や国の補助金を使って四苦八苦しながら古民家改修して、結果的には家にあぶれている人はいなくて、なんとか落ち着いています。

– 空き家はたくさんありそうなイメージですが、貸してくれる人がいないのですか。

大橋:はい。なかなか難しいんです。田舎ですから、村を離れている人も頻繁に帰省するんです。空き家は人に貸して家賃収入を得て、帰省したときには宿をとった方がいいかと思うけれど、予約するのがわずらわしいと言われちゃう。家の荷物の片付けが大変だという声も結構ある。対個人ではなくて役場を間に挟んだ賃貸にするなど、いろいろ工夫しました。改修した家については10年間は借り上げる約束をして、役場と契約しています。住居問題は、今でも移住者を迎える場合に苦労している点ですね。例えばこの家(写真)はFURERUの山田夫妻が住んでいる家です。

– 役場が絡んで改修した家はこれまでに何軒くらいですか。

大橋:8~10軒ほど、お金をかけて改修した家があります。改修は最低限、風呂、トイレ、台所の3つは直して、予算が余ったら他の部分にも手をつける方法をとっていました。だからあまり傷みがひどい家は直せません。

– 22年度が終わって雇用対策協議会自体はなくなってしまったんですか。

大橋:専任の人はいないけれど、役場の中に機能は残っています。補助制度で事務員の賃金が出ていたのが終わった、というのが22年度末でした。

 

村内の弱者の暮らしを考え、起業を決意

– 3年の期限が終わって、森の学校を経て、「じゅーく」を立ち上げるのですが、そのお話に移りますね。今回大橋さんにお話を聞いている理由に、西粟倉村内では希有な“熟年起業家”だから、ということがありまして…

大橋:そうですね(笑)。一応起業だ。でも地域を元気にするとか、儲けたいとかそういう野望があっての起業ではないんです。

– 農業をやろうと思っていたのに、じゅーくを立ち上げるまでには、どういう気持ちの変化があったんですか。

大橋:雇用対策協議会にいたり、森の学校を数年手伝ったりして、いろんな仕事や雇用が生まれるのを見てきました。だけど、ふと西粟倉村内にいる障がい者のことを考えてみると、大原まで働きにいったり、遠くへ行ってしまっている。村内には障がい者が働けるところがないんだよね。だから、本当は家族で一緒に住みたいのに、家を離れなくてはいけない。

– その問題意識は、雇用のことに関わってきて、芽生えた気持ちだったのですか。

大橋:村内に仕事は生まれてきた。だから、障がいがある人も、できるだけ西粟倉村内に暮らしながら、仕事ができるようにしたいと考えるようになったんです。障がい者の方は配偶者がいない方もあり、親が亡くなればいずれ1人になる。そのときにどういうバックアップができるのかと、役場とも話していたんです。1人暮らしが難しい人たちがいずれ安心して暮らしていける場所も、つくっていかなくてはいけません。西粟倉に限った話ではないけれど、老人介護はあっても障害者については手薄な現状があるんです。

– なるほど。それでNPO法人じゅーくと作業所プラスワークをつくったわけですね。

大橋:NPOの認可を得たのは平成26年の3月で、事業所の認可もらったのは、同じ年の4月末です。作業自体はある、という判断ができたので、それなら立ち上げてやってみよう、と決意しました。就労継続支援事業B型での作業をしています。

– 就就労継続支援事業B型の説明を少し挟むと、障がい者就労支援事業の中には、就労継続支援A型事業と就労継続支援B型事業がある。A型は一般企業での仕事は難しいけれども、雇用契約に基づく就労が可能な人を対象としている。B型は、雇用契約が難しい方への制度ということですね。

大橋:普通の雇用と近いA型だと、1日5時間くらいの時間で最低賃金を下回らないような賃金をもらうことになっています。B型はそれができない人か、A型にいく前に訓練する人がいるところです。

– 事業所は森の学校の中の一室にありますよね。具体的にはどんな作業をしているんですか。

大橋:今は森の学校の仕事がメインです。50cm角のユカハリ・タイルの、節や割れた部分を、埋めたりする作業があります。森の学校が取り扱う商品が、無節のきれいな材木だけだったらうちの仕事はないんです。あとはワリバシ・タイルを組んだり、割箸をつくったり検品したりの作業ですね。量に波はあるかもしれないけれど、年中切れることはない仕事です。安定した作業がないと工賃も払えないから、プラスワークの仕事も成り立ちません。

– 事業をスタートさせて約1年、実際に仕事は途切れませんか。

大橋:途切れないどころか忙しい。応援に来てもらうことがあるくらいです。今は4人の利用者が毎日来ていて、1人が週に2日、もう1人が週に1日通ってくれています。総数でいうと6人が通っています。定員は10人だから、まだ余裕があります。

– 毎日利用するか、週1回なのかは本人が決めるんですか。

大橋:本人、家族、それぞれの支援者とで決めます。このくらいならできるかな、という塩梅を探っています。週に1日の人はこれまで仕事をしたことがないから、まずは1日。週に2日来ている人はよそに3日、うちに2日来ているというケースもあります。

– 障害の度合いや経験によって柔軟に対応するのは、普通の雇用とはだいぶ違うところです。

大橋:プラスワークも、将来はA型も併用した施設にしていきたいと思っています。そこからさらに、村内の一般企業の中で障がい者雇用が増えて…というステップが踏むのが理想です。理解を得ていくには時間がかかるでしょうから、私の代では無理かもしれないけれど。

– プラスワークでA型の雇用を生み出すとしても、B型の実績を積んでからが順当なんですね。

大橋:最初からA型に挑戦するとなると、利用者とスタッフの規模が大きくなるし、やってみて難しかったからB型にする、というのは無理なんです。村内にB型の施設があるということは、例えばどこかで働いていた人がうまくいかなくて、一度B型に戻ってきて1ヶ月働いてまた復帰する、ということができます。その砦をちゃんと築いておきたいんです。村内にA型の施設しかなかったら、行き場がない状況が生まれてしまいます。

– 定員が10人ということは、まだ余裕がある。募集するには、どこに働きかければいいのですか。

大橋:それが難しいんですよ。需要はあるはずだけど、プラスワークで働いてもらうところまで持っていくのは難しい。家族に障がい者がいることを隠したい人が多いんです。働きに出るイコール外に出ることだから、隠したい気持ちの家族のもとでは難しい。家族が役場などに相談に行っている場合は、すぐに決まりますね。逆にいえば、それ以外だと情報は入ってこないから、ひたすら待つしかない。

– じゃあ、今通ってこられている方は、外に向かって「働きたい」という意思表示をされた方ということですね。

大橋:はい。本人が直接来たの例が2件。あとは、支援員さんなりが来てですね。確かな情報がない限り働きかけられないんです。だから、保健師さん、役場、病院の方にはあらかじめお願いしておいて、興味を持っている人がいればすぐに出向くようにしています。地道にやっていくしかない。いずれ、B型、A型、移行型があって、グループホームもある、総合的な福祉サービスができるようになるのが目標です。

– これまで村内に全くなかったものをつくろうとしているんだから、それは大変だ。

大橋:特にA型、B型とか最近できた制度でもあるし、授産施設といっても西粟倉から一番近いのは、高速使って車で1時間、電車なら3時間ほどかかる津山くらいのものでした。それが美作にでき、大原にでき、少しずつ広がっている感じはあります。

じゅーくの指導員の方も助っ人で箱の組み立て作業

 

多様性のある村をつくっていく

– じゅーくができて、西粟倉は「移住者の村」というだけでなく、福祉の分野でも先進的な地域になっていく道筋が見えてきました。これから近い将来、遠い未来の目標を教えて下さい。

大橋:まずは村内で暮らしていきたい人が、家族が一緒にいられる機会を増やしていくこと。プラスワークが、しっかりとした障がい者福祉サービス事業所として位置づけられて継続していくことで、村内の人が気軽に来られる場所にしたいですね。

– 外からの人をたくさん呼ぶ仕事をしていたからこそ、もともとある環境、障がい者もいれば、生きづらい人もいるという状況に自覚的になっていったのでしょうね。

大橋:そうですね。外から来る人は仕事を求めて、いろんな想いがあってやって来る。でも、どんな地域にも弱者はいる。弱者の立場を大事にしてあげないで、外から来る人の環境ばかり整えてはいけないんです。どちらも平行してきちっとやっていかないと、いい村づくりにはなりません。高齢者についてはどの自治体でもわりと取り組んでいるけれど、障害者についてはまだまだですよね。そのきっかけつくっていきたいです。

– 10年先、20年先には、大橋さんが誰かに引き継いでいくことが必要になってきます。

大橋:そうですね。実は、今すでに息子と一緒にやっているんですよ。大原の社会福祉協議会で老人介護をしていたんですが、一緒にやろうと誘ったら、仕事を辞めてくれて。親父がやるから仕方なしっていう感じかもしれないけど…

– それは頼もしいことです。外から来る人の話をたくさん聞いて、若い人が増えていく希望を感じるのはもちろんなんですが、大橋さんの活動のようなことも両輪になってこないと「社会」を考えたときにはいびつになってくるのだろう感じました。

大橋:そう思います。いろんな人がいて暮らしていくためには、いろんな人がいられる場所をつくっておかないと。私に病院や学校をつくることはできないけれど、今まで居場所がなかった人たちが集える場所を、少しずつ充実させていくために、できることをやっていきたいです。